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149 宗教と社会的モラル 3
その数年後、親教会長は大腸ガンにかかり、まだ若かったのに出直し(死亡)してしまった。不幸はまだまだ続いていたのである。教会では毎朝、毎夕「おつとめ」といって神殿でお祈りをしている。そんなことよりもっと大切なことがあった。この宗教では「人のみち、理をとおす」といって一般での倫理、道徳観のことを指すが、この「人のみちや理」に反した行いをすれば、すぐに天から鉄槌が下る。信仰の深さにもよるが、気付かせを貰い方向転換することにより軽症で済む、人間だから必ず間違いはする、それを悔い改め、軌道修正することで「大難を小難」にすると教えられている。この宗教の信者であるとか、朝夕お祈りをしているから、難を逃れられたり、徳とか利益を得られたりするものではない。これを亡教会長はどの程度理解し、実践していたかである。おそらく前もって数々の小さな知らせがあった筈である。その気付かせがあっても無視し続けたに違いない。彼は悪いことの出来る人間ではない。人当たりも良く快活な教会長であった。普請金を息子の入学金として使っても、私は何の恨みも持たず、「仕方ないな」としか思わなかった。それは一旦出した金、私には縁のない金だったからである。しかし神としては絶対それが許せなかった。「人間が裁けないなら神がする」と鉄槌を振り降ろしたのである。神からの罰則は厳しい。「これでもか、これでもか」と、とことんやって来たのであった。
お金は貯めることより、その使い道の方が大切だと教えられる。間違った使い方をしたため恐ろしい結果となって現れた。私と兄にも責任がある。善として出したお金が親教会長家族を破滅に導いてしまったのである。
上級教会にもこの教会の面倒を見、指導をしていく責任があったと思う。この上級教会は創立110年、由緒ある立派な神殿と家屋、広い屋敷を持ち、新系統を創設出来る(50箇所以上)に近い子教会を抱えている。ところがこの上級教会は以前、教会長奥さんが車を運転中、人を跳ね死亡させている。それを信仰の全くない町の有力者に頼み、内々の示談で解決をした。だから指導しようにも子教会は聞く耳を持たないのである。この教会長、私が検定講習を終え布教師となって挨拶に訪れた時、「私たちの教会はお供えで大きくなった系統である。お金はこの教会を通過、素通りするだけ、まるで銀行のようだ」と嘆いた。「今後、お供えを頼む」と私に言いたかったのだろうが、「嫌な系統の教会に所属したな」としか思わなかった。「人を助け信者を増やすがこの宗教の本来の姿ではなかったのか?」私は修養会及び検定講習会でそのように習った。
1981年の親教会新築普請話の席上、この教会長も傍に居て、私が親教会長に銀行小切手を手渡しているのを見ていた。そして親教会長は「普請することが決まったので、毎月のお供えをゆるくして欲しい」らしきことを頼んでいた。そこで私は、彼が厳しくお供えを要求しているのだと気付いた。この教会長、朝の神殿清掃中、高い台から転げ落ちるようにして倒れ、そのまま出直してしまった。ある信者は「神から見放され、投げ飛ばされたようだ」と言っていた。
今年の名古屋場所、相撲の時津風部屋で暴行殺人事件が起きた。日本相撲協会の監督責任が問われている。北の湖理事長は「責任は部屋の親方にある」と言っていたが、社団法人である以上相撲協会にも、その責任がある。宗教法人の場合も同じで、上級はその下、その上級はこの上級の面倒を見、指導する立場にある。そして本部はすべてを総括して、その監督責任がある。
以前、お供えの一件を本部役員に尋ねた教会長がいた。すると「本部としては何も要求はしていない、各系統が互いに競い合って出しているだけ」と言ったそうである。「競い合わせる」その雰囲気を作っているのは一体誰なのか? お供えを徴収するだけが上級教会や本部の仕事ではないはずである。教典のどこを読んでもそんなことは一切書かれていない。「人は常にまこと真実であれ、人助けたら我が身助かる」が根本の教えである。私が本部の検定講習会で勉強していたとき、ある講師は「この宗教で一番立派な人とは、お金をたくさんお供えする人である」と言っていた。冗談にもそんなこと、口にすべきではない。余談だが、本部最高指導者の何代目かは世界中から古代美術品を買い集め、その豪華な博物館が広大な敷地内にあり一般の人でも鑑賞出来る。
各教会子弟のしつけの悪さ、マナーの悪さ、常識のなさが指摘されている。とにかく教会関係者家族の行儀が良くないのである。信仰していない一般人の方がずっと倫理、道徳観に優れているのだ。信者数が増え、その組織内で充分生活が出来るようになった。世間の荒波、厳しい現実、常識ある規律の世界へと入って行く必要がなくなったからである。本部でもこれを問題として捉え、本部員の偉い先生方は神殿講話などで、すべての教会に向かって、その引き締め策等々の講演をしている。しかし各教会へ言い聞かせるのではなく、本部が先ず範を垂れる必要がある。言葉による講義ではなく、その実践を率先してやらない限り、この問題は解決しない。
私は数々の教えのすばらしさから、今もこの宗教の信者である。したがってこれまでの話は誹謗、中傷ではない。教会関係者は人間思案ばかりが強くなって、元を忘れてしまったのではなかろうかと思われる。それが役職ある人、高い位置、重職の人ほど「理にはずれ、神の存在すら信じていない」ような気がしてならないのである。私は数々の出来事を通して、この世には確実に、本当に神様が存在していることをあらためて実感した。人類が誕生して以来、眼に見えぬ何らかの力が、私たちの頭上に働き続けている。それを神として崇めた古代の人々の知恵が心底より理解出来る。天のどこかに、いかなる世界の宗教よりも、それを超える偉大な何かが存在しているのである。
昨今、宗教の社会ではグローバル的規模でお金、お金、お金が中心の世界となっている。私の住むオーストラリアでは教会を売却する場合、そこの教会の信者数で価格が決定するという。テロとの戦いを続けているブッシュ米大統領をサポートしたのはアメリカのキリスト教右派で、国内軍需産業の発展を望み、イラクの石油利権欲しさのためであった。人殺しに宗教が加担し、それを信者は聖戦と信じていたのである。しかし人間が考えた思い通りの結末とはならず、イラク国内を余計に混乱させてしまった。これがもし利害を考えず人道支援中心で行っていたならば、神からの加護を貰って、より良い結果が出ていたことだろう。強欲、貪欲の果てがこの結末を招いてしまったのである。
世の中には金儲けしか考えない人たち、悪い事をしてでも利益を得ようとする人たちがいる。それで得たお金を一体何に使うつもりだろうか。 そのお金で豪華住宅を手に入れ、高級家具、一流品を買い集めた。ところが一人で眺めていてもつまらないから、人は常に自慢のため他人に見せたいとの心が働く、でも他人は彼の汚い儲け方を知っていたなら、ただ軽蔑されるだけである。どれ程美味しい物を一人で食べてもその喜びには限界がある。それよりも家族や他を満足させれば何倍もの喜びが帰ってくる。ならば汚いやり方をして金儲けなど出来なくなってしまうのである。
以前、兄弟の一人が「少々悪い事をしてでも、金を儲けたほうが良い」らしき言葉を吐き、私は一大ショックを受けたことがあった。昨今、ニュースでの報道は氷山の一角だと思われるが、一流企業や有名老舗店等による数々の偽装事件を見ても分かるように、昨今、ほとんどの人がそのように倫理、道徳観に反した考えを持ち、それを実際にやっているのが現実で、その歯止めが掛かからない状態である。「善行」を頼りにしていた宗教家にその実践力、啓蒙力がなければ、この先一体どうなっていくのだろうか。
「天網恢恢疎にして漏らさず」今は人の世の法律で罰せられなくても、いずれ天からの厳しい鉄槌が待っている。それしか期待できない悲しい世の中である。


148 宗教と社会的モラル 2
十畳ほどの板の間、その端に神棚が置かれ参拝場所となっていた。不釣合いで異様と思える大きさの太鼓が目にとまった。自宅の一室にある、このような形式をホームチャーチと呼ぶそうだが、市の条例では教会として違反で隣近所から苦情が来ないよう常に気配りをしているとのことであった。昼食をご馳走になり、帰り際「月一回開催されるお祭りに来られては?」と誘われた。「私は宗教をやりにわざわざカナダまでやって来たのではない」と思ったが御夫妻の熱心な信仰心からそれを言い出すことは出来なかった。御主人がカナダへ永住した頃は賭博全盛期で日本人仲間から彼は「ケンピン」と呼ばれ、「おいちょかぶ」が得意で常に勝っていたそうだ。そういえば母に「カナダへ行く」と言ったら、大反対した。それはこの地で「賭博が盛ん」を知っていて巻き込まれたら困ると思ったからである。御主人はその後重症の肺病にかかり闘病生活中、この宗教によって助けられ、それ以来布教活動を始めたそうである。
文化、習慣の違う英国系ホストファミリーのホームステイ先では日々鬱憤が蓄積した。それを解消する為に度々この日本人宅を訪問した。それにつれこの宗教にも関心が芽生え、幼い頃田舎の教会へ参拝したことが蘇ってきたのである。ちなみに私の場合、母の系統を受け継がねばならず、この教会の信者とはならない。従って当教会とは何の利害関係も発生しないのである。しかし御夫妻は損得勘定抜きで本当に心から親切にしてくれた。これが真の宗教家の姿であると思った。
その後、流れに従ってアメリカへ渡りロスアンジェルス伝道庁での研修会を受講することになった。そして帰国した後は本部での講習を経て布教師の資格をも取ってしまったのである。日本に居たならば99%この宗教には関心を示さなかった。親教会や上級教会を見て品のなさや常識に欠けた暗くて活力のない「なんとつまらん宗教だ」と思っていたからである。しかしわざわざカナダまで来て、ご夫妻の温かい人柄、情に触れその思いが変わってしまったのである。
1981年7月、私にオーストラリア大使館から永住のビザが下りた。それからすぐに親教会新築普請の話が持ち上がった。母の頼みで私は大金を寄進することにした。兄と一緒に仕事をしていて、ある商品を開発した。それがヒット商品となり、会社から高給を貰っていた。その預金からかなりの金額を出そうと決心をした。兄も母に頼まれ、この宗教の信者ではなかったのに、私に負けずと競争するかのようにして同金額を出した。以前所属していた、ある会の集いで「善い事にお金を出せば将来必ず数倍になって戻ってくる」と教えられていた。つまり私は将来数倍になるだろうとの期待から、それを試してみる気持ちでもあったのである。
私がオーストラリアに永住する直前、新築話が出て数ヶ月後、この普請が中止となった。ある地元の有力者から土地を提供すると約束をされながらも、教会長夫妻は日々教会の家計を引き締め、長い年月切羽詰った暮らしを強いられる事を恐れて取り止めてしまったようである。「今の贅沢三昧の生活から抜け出せなかったのではないか?」との噂も聞かれた。そして数日後、わざわざ教会長夫妻が揃って私の自宅までその報告にやって来た。
「それで普請寄付金の件ですが」と言う。普請に出したのだから、普請が中止になれば「全額をお返しします」と来るのが普通である。ところが返金に来たのではなく「お金をどうしましょうか?」と聞きに来たのであった。「お金は神様に差し出したのも同然、一旦出したからには返してくれとは言わないだろう」との強い思いが彼らにあったようである。
「兄はどうしましたか?」と聞くと「これから伺うところです」と言う。私は「来週オーストラリアへ永住します。数年後、再度普請の話が持ち上がっても海外から協力出来るかどうか分かりませんので、その時まで預かって欲しい」と答えた。今思うに、この時「神様に出した云々とは考えず」世間並みに厳しく、冷淡に返金を要求していれば、その後不幸の数々は起きなかっただろうと思う。長年三代目教会長を勤め信頼していたからこそ、そのようにした。しかし彼は自由になるお金が身近にあったがために、一般常識である倫理、道徳観をも消失させてしまったのである。
それから数年後、こんな話しが伝わってきた。教会長の長男が大学進学のため入学寄付金としてこの普請金を使ったと言うのである。近鉄沿線にある三流の私立大学への入学だったが新聞でも、この大学は高額の寄付金問題で話題となっていた。信者たちから「長男は学業成績が悪ければ教会本部へ奉職させれば良い」と言われていた。ところが世の中、学歴時代である。見栄とか肩書き、本部でも役職を得る為には一流大学卒が優遇されていると思った。「神様を信仰し奉仕する」と言うより世間並み一般常識の世界へと走ってしまったのである。
「普請話の一件はどうなったのか」まるで詐欺にかかったような気がしてきた。母に尋ねると「当時集めた寄付金すべてがもう残っていない」と言う。ならばあの時、厳しく返金を要求すべきだった。母も母である。「出して欲しい」と頼んだくせに普請が中止になっても「返して貰え」とは言わなかった。私と兄は母の一言でどのようにでもしたのである。母は他の信者に、「私の子供が一番多く出したと思わせ、よい顔をするため、私や兄はどうでも良かったのではなかろうか」とさえ思えてきた。でも母であるし、信仰上のことなので、文句は一切言えなかった。
数年後、この教会長の長男が結婚をした。私はオーストラリアに居たので詳しくは知らなかったが、やがて生まれてきた女の子が通常の健康状態ではなかった。そのあと期待されていた成績優秀な二男が女性関係を苦に列車に飛び込み自殺をした。彼の車が近くの線路脇の道路にポツンと駐車されていたそうである。この宗教では「教会は助けの場所である」と教えられている。教会長の息子が一大事件を引き起こしてしまった。これでは教会は助けの場所どころではない。当時、臭い物に蓋で、新聞で知る以外、教会長はその事件の経緯を詳しく語ろうとはしなかった。数年後、彼に会った時「次々と不幸に見舞われた」と当時の事を思い出し、苦笑いをしただけであった。そして「教会本部では最高指導者がトップの座を息子に譲ったから、私も同じようにする」と言い出した。通常教会長職は死ぬまでが原則で、本部でも同じである。ところが本部でも代えたのだから、私も同じようにすると言うのであった。日々元気一杯の彼だったから健康上のことではない。その理由が分からず首を傾げた。


147 宗教と社会的モラル 1
長野県小諸市の宗教法人「紀元会」の会員で寿司店経営の奥野元子さんが同館二階の会議室で信者たちから集団暴行を受け死亡した。この事件で改めて宗教に対する世間からの批判が高まった。人間の心を正しい方向へ導いて行くのが宗教の役目であり、政治とか学校ではどうしても伝え、教えることの出来ない領域である。政府は国民の人心が悪い方へ向かうことを恐れ、社会での犯罪を防止し、又増加させないためにも宗教の善の力を頼りにしてきた。宗教法人を擁護し法律で無税扱いとする特別措置を取っているのもそのためである。ところが昨今、その宗教法人全般に心と行いが乱れ、その本来の目的、善としての機能が失われてきたようである。
老舗店とか由緒ある企業も同じだが創始者の並々ならぬ努力によって会社が創立され、後を継ぐ者はその偉業を称え家訓を厳守することでその業務を遂行し、維持、発展させてきた。二代目までは苦労した創始者の背中を見て育っているからまだしも、いかなる偉業も三代は続かないと言われるように、孫の代で何らかの変調をきたすもので、ボンボン育ちの三代目に器量のない人、極道者が出る場合が多く、今まで得た信用を失墜するとか、財産のすべてを食い潰してしまう場合が多い。それは世襲制の弱点と言えるかも知れない。
伝統を重んじる、道(どう)に通じる文化や演技が中心である古典芸能の世襲制は別として、一般社会では何もかもグローバルで急速に進化を遂げている。その波に乗り遅れたり、今まで通りのやり方をしていたりすると斜陽となってしまう、それでどうしても易しい対策ばかりを考え、目先の欲、利害だけの追求へと走ってしまう。日々贅沢三昧に慣れてしまうのも原因の一つだが、創始者の真の目的やら家訓さえも無視され守られなくなって次第に信頼をなくし衰退の道へと進んで行く。昨今、新聞を賑わしている伝統ある老舗店、一流企業による偽装事件の数々がこれを物語っている。
宗教の場合、心の教育が中心だから倫理観、道徳観が物差しで、それに照らし合わせればすぐに善悪の判断は出来る。でも世間で言われているカルト(創価学会、統一教会、その他諸々)の場合は例外で一般常識では考えられない信義が根底にあって理解が困難で善悪の判断すら出来なくなる恐れがあり要注意である。でもこのような団体や組織はこの代が限り、トップである権力者が亡くなれば内部分裂が起き空中分解が始まる。不徳で得た資産、(宗教法人の場合は国庫のものとなる)所謂今まで築いてきたものすべてが砂上の楼閣で、それらは時が来れば消滅してしまう存在である。
12月号、月刊文芸春秋に「池田大作 79歳の私生活」の中で、彼は「私は、日本の国王であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者、最高権力者である」と発言している。そのような言葉は他から言われてこそ価値がある。半島出身者特有の自画自賛で、日本民族なら決して言わないだろう。自分から言い出さねばならないとは哀れの一言に尽きる。彼もそろそろ神の領域に入ろうと必至になっているようである。前ブログでも述べたが人間生きている以上神にはなれないから、彼の消滅も近いのではないかと思われる。
また彼は「世界中から勲章を貰うこと」が唯一の喜びだそうだが、そうではなく「世界中の人々に喜びを与え、その喜ぶ姿を見て、それを自分の喜び」として欲しい。そうすれば勲章など要らないと断っても自然に集まって来る。世の人々を救いその歓びの表現として勲章を授与されてこそ真の価値がある。残念ながら今まで創価学会は世の中から批判こそされ、良い話など聞かれたことがない。政教分離が原則の国会に堂々と進出しているのも歪んだ教団の実態としてその姿を如実に現している。
古い神社や仏閣も、今や市場主義経済の中で利益を上げるための観光地となり、その教えは形骸化している。したがってこれらも宗教としての価値がない。ここで今も活動的な立教250年、300万信者を持つという伝統ある宗教法人の話をする。
私の亡き母がこの教団の信者であった。それ以前は亡父の亡前妻が信者で私の母は中年過ぎになり感じることがあって信仰を始めたようであった。所属教会は創立70年近くだが本部から数えて4番目の末端教会で当時三代目が教会長をしていた。私は幼い頃、母に背負われ教会に連れて行かれた記憶がある。その後父が亡くなり働き手となった母は参拝も途切れがちとなったが、四人兄弟で一番下の私が社会人になったのをキッカケに参拝を再開した。母は勝気な性格で他の信者たちがする新鮮な野菜とか果物のお供え物を注文から支払いまでほとんど一人で取り仕切っていた。これは信仰熱心というより教会内で信者仲間から良い立場を得るためではなかったかと思う。神様へのお供え物は一人でするものではない、信者全員で出し合い調達、皆が揃って準備をするのが信仰上尊いことであると教えられているからである。
私は過去ブログで記したがカナダ行きが決まった時、現地にはツテが全くなかった。母からの話で当教会を通じカナダのバンクーバーにある日本人宅を紹介して貰った。それは現地で知り合いが出来ればいろいろ生活情報やビジネス状況を得るために非常に便利だと思ったからである。
バンクーバーでホームステイ先に到着するとすぐ紹介された日本人宅に「只今着きました」との電話を入れた。そうすると「明日自宅へ招待したいからホームステイ先まで迎えに来る」とのことであった。過去ブログ「3、語学留学から5、幸運」でも述べたように「ホームステイ宅の古さ、汚さ、貧しい暮らしぶり」から「魔のトラップ」に入り込んだような恐怖心を持っていたから「何かあったら助けてくれる」と心強い味方に出会えたような気がした。
カナダで始めての日本人宅訪問であった。私の田舎にアメリカ村と呼ばれている地域がある。狭い港、少々の魚介類収穫しか仕事のない寒村で百年前よりカナダへの出稼ぎ移住が盛んであった。中学時代のクラスメイツ何人かが卒業後カナダへの永住を心待ちにしていたのを思い出す。
この日本人宅もこの村出身者で30年前(当時から数えて)にこの地へ来たとのことであった。話が進むにつれ御主人は私の亡長男と同級生だったことが分かり、さらに私の父も知っているとのことであった。世間は狭い、外国までやって来て私の家族を知っていたとは偶然にしても何か恐ろしい因縁めいたものを感じた。「悪いことは出来ない」とはこの事、今後も悪い噂が出ないよう言動に十分注意しなければならないと思った。
御夫妻とも田舎育ち、戦後の徳育が残っていた日本の古き良き時代にカナダに永住され、当時の素朴で純粋、真っ直ぐな気質がそのままであった。日本ではもう忘れ去られた損得を考えない心底からの親切がこの夫妻に満ち溢れていた。




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