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103 クラスメイツ老若男女
[クラスメイツ老若男女]
エジプトから移住して来た若者がいた。彼の名はアマと言う。彼の兄も現在ITの上級クラスに在籍し受講を続けている。19才と21才、二人とも非常に太っていた。兄の方は一段とお腹が出ていて、まるで相撲取りのような体格だ。
彼らはバスで通学していた。ある日、教師の都合で授業の終るのが、大分遅くなった。そして彼らはバスに乗り遅れてしまったのである。彼は、遠慮がちに、私の帰る方角を確かめた。そして送って欲しい様子だったから、少し遠回りとなったが、同乗させてやることにした。
彼らは8年前に家族一緒でこの国へ永住してきた。二人が義務教育を受けている途中に母親が病死、あとは父親の手一つで育てられたという。父親はタクシーの運転手だったが、仕事と子育て両方で相当苦労したようだ。
アマはどちらかといえば社交的、兄はむっつりとしたインテリ型である。父親が仕事一筋で頑張っている、そんな姿を見て育った二人は、優秀な成績だった。
以来、アマは何かと私の名前を呼ぶようになった。冗談やシャレを云っては呼ぶ、それを休憩時間や授業中でもやるのだ。私をからかって呼ぶのではなく、フレンドリーだったので、少しも悪い気はしなかった。
しばらくは聞き流していたが、彼が私の名を呼んだら、こちらも彼の名を呼び返してやることにした。彼は休憩のあと教室に戻るのがいつも遅かった。その時、大声で「Amma Where have you been?(アマーどこへ行っていたの?)」と云ってやるのだ。すると、彼はだまって苦笑いをした。
このコースの始まった頃は12名のクラスメイツがいた。五週目になったら、三人が来なくなってしまった。以前の電気科、電子科コースとまったく同じパターンである。千ドル近い授業料を払って、よくも簡単にギブアップが出来るものである。諦めが早いのは、この国特有で国民性なのだろうか?
クラスメイツのおばさんはずっと続いていた。彼女の名前はジャンと言う。年を聞くと失礼だと思ったのでやめたが、おそらく52才位だろう。廊下の椅子に座って、教室が空くのを待っていると、クラスで一番若い女の子が通り過ぎた。「私たちの娘と同じ年かな?」と言ったら、彼女は「いやいや我々の孫の年だよ!」と答えた。と言うことは、彼女はもっと年を取っているのだ。
この国の学校では、私達のような年齢の者がクラスに混じって勉強していても、クラスメイツはごく普通の自然な態度で接してくれ、違和感などまったくしないのだ。本当に有難い環境である。
ジャンは建築関係の男性と同居していた。このような関係では、彼をパートナーと呼ぶ。休憩時間には、時々のろけとも云える、彼の愚痴話をよくしていた。彼女は今無職だが、パソコンが大好きで、将来そのサービスの仕事をやりたくてこのコースを受講した。考えることは誰も同じである。
2000年頃からITバブルが弾け、この職業も頭打ちとなってきた。若くて優秀で、どこかのIT関連会社にでも就職するのなら別だが、今から起業するとなるとそれは大変な努力が必要となる。私の場合、すでにそれに近い仕事をしていたから、この業界のことは知っているつもりである。
アマはこれらの状況を良く知っていた。彼らは最上級クラスまで進み、サティフィケイトを取得したあと、エジプトへ帰国して事業を始めるという。エジプトでは技術者が不足し、どの企業も引く手数多だそうだ。IT産業はまだ初期段階でこれから加熱して来るという。まだ若いのに、彼らのしっかりした考えと目的意識に感心させられた。

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104 オーストラリアの電話局
[オーストラリアの電話局]
私がこの国へ永住したのは1981年で、当時テレコムオーストラリアと言う電話局が回線を所有し通話網を独占していた。電話を新しく設置するには、ここに申請をするか、又は前の持ち主の契約を引き継ぐか、どちらかであった。私の場合、中古の家を買ったので、後者だった。
電話局は政府が運営していて、以前の日本での電信電話公社に似ていた。モービルホーンの普及が盛んになってきた2000年より、他国の通信会社も、この国への参入が始まった。いわゆる電話の再編改革時代となったのである。この時にテレコムオーストラリアはテルストラと名を変え、半分は政府、半分は民間の会社となった。
参入一番乗りでやって来たのはオプタスというアメリカやヨーロッパで活躍している国際通信の会社だった。すでに数個の衛星と大規模な通信網を持っていた。この頃、ラジオのニュースを聞いていたら、衛星で送られてきたオプタスのインターナショナルコールをテルストラが国内の顧客の電話回線に繋がないという事態が発生した。この一件は他の報道機関でも大きく取り上げ、解決するまで相当時間がかかったようだ。
両社は相互回線使用の件でどのような契約を交わしていたのか知らないが、テルストラが意図的に繋がなかったことで、「立派な会社なのに、みっともない行動を取るなあ」と思ったものである。日本での親方日の丸のような体質の会社たったから、他社との激しい競争を前に、相手をけん制して、このような恥かしい態度に出たのかも知れない。それ以来、当社の信用は失墜した。
2001年から私はインターネットを始めた。プロバイザーはオーストラリアの富豪ケリーパッカー氏の息子が起業したワンテルワンネットという会社だった。パソコン業界の広告やテレビでもじゃんじゃんコマーシャルをしていたから、誰でも知っていて、私の周囲でも入会している人が多かった。
その会社は私がインターネットプロバイザーとして登録、アドレスを貰った3ヶ月後に倒産、電話の使用及びインターネットのアクセスが出来なくなってしまった。ITバブルの弾け始めた頃で、大きな設備投資と雇用人数が多すぎた為、運営が難しくなり、自滅したと思われる。
私は次に選んだのはビッグポンドというテルストラ系のプロバイザーだった。ここなら潰れる心配はない。私の家の近くにパシフィックフェアーという大きなショッピングセンターがあって、その中にこの店があった。
政府が運営していた頃は、大きなビルディング全体がオフィスとなっていたが、他社参入後の改革で、電話一般業務の受付とモービルホーンを売る小さな店をあちこちのショッピングセンター内に構えるようになった。そしてインターネットプロバイザー入会受け付けもやっていたので、私は手続きをし、当社指定のCDを使って自分でインストールをした。少し前までは、ADSLのブロードバンドシステムはなくて、ダイヤルアップのみだったから、インターネットアクセス中は電話の使用は出来なかった
数ヶ月は何の問題も起きずインターネットを楽しんだ。それから徐々に接続状態が悪化してきた。ウイルスの影響やパソコンの故障でもない。五分後、十分後に突然切れ、再び繋ぎなおさねばならなくなってきたのである。
契約書の条件に20分間のアイドルタイム(マウス、キーボードを触らない状態)又は、連続4時間使用すると自動的に切れると書かれてあるが、まったくそれにも該当しない。接続が切れるたび画面に、そのメッセージが出るから、切れてはつなぎ、切れてはつなぎしながら使っていた。インターネットはローカルコールだが、つなぐ度に電話料金が加算される。一通話はたいした料金でないが、つなぎなおす回数が多く、それが毎日となると相当な金額となる。直接ビッグポンドに電話をしたら、「原因は不明」と言って取り合おうとしなかった。それでとうとう我慢出来なくなって、入会手続きしたその店へ苦情を言いに行ったのである。
受付で加入書類を見せ、その用件を伝えると、「当店は一切関係がない。この番号に電話するように」と言われた。「そこへ電話をした。しかし、うまく対応してくれない。それでここへやってきた。なんとかしてほしい!」「当店では一切苦情は受け付けない!」と店員は言う。「しかし、私はこの店で手続きをしたのだ。責任を取って欲しい!」と大声で言ったら、中から、店長が飛び出してきた。いつの間にか回りに数人の客がいて、当店内でトラブルは起こしたくなかったのだろう。

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88 フーテンの寅さん 新編集
[フーテンの寅さん]
二度目、三度目と場所が替わった。一定位置を確保するのが難しい。それはストールオーナー次第だからである。ストールオーナー自身が次の週末、そのテーブルを使用するか、否か? しない時のみ、事務所から貸し出されるのだ。
マーケットの営業は土曜、日曜の朝6時から午後4時までとなっている。パビリオンと呼ばれる大きな建物の中にテーブルが置かれ、広さは3.0x1.2m、周囲にも品物を並べられるが、数は限られている。朝早く行かないと他のストールホルダーが通りまで商品を並べ、車をテーブルの近くまで寄せられない。マーケットのメインゲートは朝の4時に開くから、少なくともその直後に入って荷を降ろし、5時までには商品の陳列を済ませねばならないのだ。
土、日の二日間借りた場合、土曜のマーケット終了後の4時以降に車を再びテーブルの近くまで持って来て、残った品物を積み込み、明日また同じように早く来てディスプレイをする。
小さな商品なら手間は取らないのだが、いらなくなった中古品は大抵かさが大きくて重い、積み下ろしの作業も大変である。
オープンした後、7時頃になると客がちらほらやって来る。そしてランチタイムが境で1,2時間が最も忙しい時刻となる。
「さーさー寄ってらしゃい、見てらしゃい。そこの坊っちゃんに嬢ちゃん、兄ちゃんに姉ちゃん、買いなよ、安いよ、品物良いよ‥‥」「生まれは葛飾柴又の帝釈天で産湯をつかり、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅とはっします‥‥‥」なんて気分になってきた。
ところで場所が替わる度に売り上げが落ちてきた。メイン通りから中に入り込んだためだろうか? それで売りに出されているストールを調べてみた。レストランのときでもそうだったが繁盛している店は売りに出さない。パビリオンの中は車が通行出来る広さの通りが二つ、そこに面した場所だけが人通りが多く、繁盛していることがわかった。最初の場所はその通路に面していた。売りに出されているのは、そこから外れた場所ばかりだった。
二箇所興味のある所が見つかった。一つはナーセリー、もう一つは釣具屋、ナーセリーのおばさん、旦那さんが亡くなったので田舎に帰るとか言っていた。ストールの大きさは3テーブル、駐車場の入り口に近いが通路は狭く、メイン通りから、かなり離れた場所である。釣具屋の方は1テーブル、2つのメイン通りに挟まれた中間地点で人通りはかなりあった。以前マーケットで商売をしていた知り合いの薦めで、この場所の権利を買うことに決めた。
釣具屋は向かいが本店で、ここは予備店として使っていたが事業縮小の為、ここを売りに出していた。太い金属のメッシュを壁代わりに使い、他との間仕切りにしていた。シャッタードアーはあるが天井がなく、建物の中に拘わらず、鳥が飛び交い、糞があちこちに落ちていた。長い釣竿を置くために、オーナー自身が設計、自分で溶接をして建てたという。丁度鳥かごのような造りで、売値は8000豪ドル、私は数十年前に買ったドーナツショップを思い出し、それが安いのか、高いのか? 全くわからなかった。
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87 ニュービジネスのスタート 新編集
[ニュービジネスのスタート!]
1999年10月30日、新店舗オープン!! 店と言っても間口3.4mx2.4mでマーケットの中、いわゆるマーケット用語でワンストール又はワンテーブルと呼ばれている最小の広さである。
創立25年、クイーンズランド州では最大と云われている、常に定位置にあるマーケットである。クリーク(小川)を隔て、フリーマーケットとカラーラマーケットとに分かれ、大きさは合計10エーカー、テーブル数1000以上、ナーセリー(植木屋)、野菜及びフルーツ屋、洋服屋、靴屋、アートクラフトショップ、時計貴金属店、ハードウエアーショプ、レザー用品店、パンとケーキ屋、魚屋に肉屋、日用雑貨店、その他いろんな種類の店がところ狭しと並んでいる。
一昔前までは古道具店が軒を並べ、がらくたばかりを売っていた。昨今は、世界の工場、中国産の新製品を売る店がほとんどとなった。
通常のショッピングセンターでは売られていない珍しい品物が多く、安いので、週末には海外からの観光客を含め25000人以上が訪れ、数々あるゴールドコーストツーリストアトラクションの中でも有名な場所の一つである。
私の店と言うかストールでは十分な広さがないので家具以外、各種アンティック及び中古電子機器の販売をしている。このような種類の店も五、六年前までは四、五軒あったが、今では私一人だけとなってしまった。
私はTAFEカレッジの電気科を終え、さらに初級電子科終了後、1998年にディプロマコースに進んだ。3ヶ月間授業をうけたが、サイエンスでニュートンの法則とかで重力だの加速度だのを計算、その難解さに付いていけず、とうとうギブアップしてしまった。
アプレンティスシップ獲得でも200件近くの雇用主に手紙とレズメ(履歴書)を送った、ところがすべてなしのつぶて、最初から解っていたが、「駄目で元々」の精神でやってみた、でもやっぱりどこからもおよびがかからなかった。
それで自営以外には方法がなく、「一番安上がりに店を持つには?」と、いろいろ探してみたら、ある人からマーケットのことを聞いた。週二日、土、日だけの営業だが、一度試してみる価値がある、家にある不用品類すべてを持って来て売る事にした。
マーケットでは場所が決められ、殆どがパーマネントのストールホルダーで占められている。空いたテーブルはごくわずかしかない。空いているかどうかも指定日の水曜日までわからず、その日になって、空いていれば早い者順で決められていく。私の場合、主に電気器具が多く、雨が降るとまずいので、常に建物の中を選んだため、よけいにテーブルの確保が難しかった。
そして三度テーブルを確保し、トライしたのである。当時、レントは土、日の二日間で50ドル、その総売上は650ドルとなった。不用品だったので600ドルが手元に残った。でも手持ちの品物だけではすぐに底をついてしまう。継続するには仕入れねばならない。それでいかに安く仕入れるかがポイントとなる。今の所オークションかガレージセール以外には考えられない。この売上金すべてを仕入れ用に回すことにした。
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102 コンピューティングクラス
[コンピューティングクラス]
一週目はすべて基礎学習であった。インフォーメイションテクノロジーについての一般教養で4時間、OSウインドウズの解説が3時間、ワードは6時間で例の分厚い教科書をこの時から使い始めた。ワードでは別に数冊、厚めのコピーを付属のワークシートとして渡された。
教科書の例題は易しくて、解説に従っていけば、いくらでもどんどんと前へ進めた。コピーの方は違った形の質問が二、三あって回答は書かれていない。本の例題を参考にしながら、自習で進めていく。出来なかった分は自宅へ持ち帰りホームワークとなるのだ。これは非常に手間のかかる作業であった。
教科書の進み具合を同時にチェックされ、コピーの方を完成、それをプリントアウトして提出する。同時にフロッピーディスクに記録、その証拠品となる。教師からそれらの点検を受けた後、パスのイニシャルサインを貰うのだが、この欄は課目ごとに細かく分類されて数が非常に多かった。頻繁に教師に会ってチェックを受けねばならなかったのである。
二、三週目からは手紙や請求書の書き方、レポートや重要書類の作り方、編集の方法等、本格的なワープロ技術の習得で、そのチェックマークは三週間で合計10箇所あった。 私は初歩をマスターしていたから、難なくクリアーし、イニシャルサインを貰った。
四週目中頃よりコミュニケーション(対話)の課目が加わった。インフォーメイションテクノロジーでは人との接し方、交流が重要だからである。しかしこの内容が退屈そのもの、時間の無駄、無価値、なにを目標としているのか、さっぱり分からなかった。
4人ずつが1グループになり、教師から課題を与えられると、それについて個々の意見を述べ合う、又はゲームやトランプまでやらされる始末、これでは小学校低学年のお遊びの時間である。それにしても、誰からも、こんな内容の授業に苦情が出ないのが不思議である。大人がもっともらしい態度で真面目にやっているのを見ると滑稽である。この授業は週6時間、5週間に渡ってあった。高い授業料を払ってコンピューターを習いに来ているのである。もっとソフトやハードウエアーのことを学びたい。ITコースの責任者に文句をつけに行こうと思ったが、始まって間もなかったから、少し様子をみることにした。
二週目と四週目の終わりにワードのテストがあった。教師のコンピューターから各生徒のパソコンにLANで出題された。試験問題をコピーして取り込む、質問にそって、その回答をしていくのだ。文章を切り取ったり、張り付けたりする簡単な作業で二つ共、無事パスをした。
五週目の終わり、ワード三度目のテストである。その朝、車のエンジンをいくらかけてもスタートしない、しかたなく自転車で行くことにした。学校までは車で20分の距離、自転車だと一時間もかかった。途中きついアップダウンになった道路があって、大汗を掻きながら学校に辿り着いた。
すでにテストが始まり、ドアーは中から鍵がかかっていた。ノックをしたら教師が開けてくれた。みんな一生懸命テストに取り組んでいた。 時間をみると始まってからすでに30分も経過していた。私は空いているパソコンを見つけてブートアップ、ちり紙で顔の汗を拭きながら、試験の準備に取り掛かった。すぐテストのデータがこちらの機械に転送されてきた。
しばらくして試験の雰囲気にも慣れてきたが、こんなハプニングがあったのでテストの詳しい内容がどうしても思い出せない。前回より複雑で難解だったことは確か、文章の所定位置にイラストを挿入したのを記憶しているが、あとはすっかり忘れてしまった。
このテスト、自信はなかった。間違いなく落ちたと思った。でも再試験を受ける場合、一度やっていると、非常に楽である。忙しい思いをしたがそれで良かった。数日後、その結果が知らされた。なんと予期せぬ出来事が起った。ぎりぎりの線だったがパスしていたのだ。これには自分でもびっくりした。

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101 受講対策あれこれ
[受講対策あれこれ]
学校のブックショップで三冊が一組になった本を買った。別々に買う場合、又学生証を持っていない場合には、一冊につき50ドルだが、これは合計で132ドル。各冊、縦、横280x220 mm、厚み25 mm、細かい英文でびっしりと書かれ、イラストや写真付きで300ページもある立派な教科書のセットである。
それらはマイクロソフトのワード2000、エクセル2000、アクセス2000で各章ごとに細かく分類されて解説、その後にはたくさんの問題集が付いていた。エクセルは特に厚みが30mmもあって、重さが2kg近くにもなった。 三冊を一度に運ぶだけでも大変で、これらの本をわずか5ヶ月足らずの期間でどのように学習し、消化していくのか、この先がおもいやられる。
以前の電気や電子科コースでは白板と教科書を交互に見ながらの授業でメガネは手元だけ見えれば良く、幅の狭い老眼用で事足りた。今回はパソコンのモニターを観る動作が加わり、もう一枚別のレンズが必要になった。いちいちメガネを架け替えると、時間を取られ、作業に間に合わないから、度数の違ったレンズ二枚の幅の狭いメガネがほしくなった。
オプティマスト(メガネ店)にはマルチフォーカスになったメガネやパソコン用に開発された品物も売られている。ところが幅が広すぎ、遠くの白板を見る時はじゃまになる。手元の本が読め、パソコン画面がはっきり見えて、しかも遠方を見るには幅の狭い形で、二つのレンズがくっ付いたメガネが必要である。そんな品物はメガネ店では見たこともなく、おそらく製造されていないだろうから、自分で作ることにした。
有難いことに昨今は、メイドインチャイナの安いメガネが売られている。二つで10ドル位である。フレームの材質が粗悪で折れたり曲がったり、錆びたりするがメガネ屋さんの20分の1の価格だからしかたがない。
マーケットの中に知り合いの店がある。彼から加工に最も適した形のメガネを二つ選び買った。家に持ち帰り作業が始まった。昔はレンズと云えばガラス製だったが、今ではすべて硬いプラスチックで出来ている。簡単に取り外せ加工も容易である。二組、両方のレンズをサインペンで線を入れ、金属用ノコで切り取った。四つの切断面はギザギザがないようにヤスリかサンドペーパーできれいにする。後は瞬間接着剤で貼り合わせれば出来上がりである。接着剤は薄い方を使うと回りに飛び散って、レンズを汚し、アルコールで拭いてもなかなか取れないから、濃い方か二液性を使った方がきれいに仕上がる。
私の場合、下部レンズの度数は3,5で教科書用、上は2,5でパソコン画面用、フレーム外部から上目づかいで見れば遠方用となるのだ。これならばメガネのかけかえの必要はなく、集中して学習に励める。これが大成功、年齢による目のハンディキャップは一応解消した。
右耳の難聴はそのままだった。耳鳴りがするだけで、ほとんど用を足さなかった。私の店ではオーディオ機器の小売がほとんどである。中古品だから、売る前には必ず音質テストをする。この時、右側スピーカーの音も左耳に聞こえてくるから、ステレオとはならない。お客さんの耳が頼りのビジネスとなった。
各クラスルームではコンピューターは白板と直角に並べられ、向かい合って座るように設置されているから、聞こえる方の左耳が必ず講師側を向く姿勢で座る必要があった。しかも接近しないと聞き取れない。遅く教室に来て、その席が取れずに逆方向に座ったら、それは災難である。それと英語力でも苦労しているから、目と耳の障害を加えれば、まさに三重苦のヘレンケラーに近いハンディキャップを背負う身での受講となった。

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100 職場での健康と安全
[ 職場での健康と安全 ]
過去ブログでも述べたが、電気工事科の授業にも「職場での健康と安全」という課目があった。そのコースでは長い時間をかけてセオリを学習し、又感電による事故を想定してCPAという人工呼吸方を徹底的に習い、後日その実技テストも実施された。そしてクイーンズラン州のアンビュランスオフィスからサティフィケイトを貰った。
このコースでも同じ課目はあったが、時間は短く簡素な授業であった。 通常パソコンの前では長時間同じ姿勢で作業を続けるため、他とは違った形の疾病が現れてくる。たくさんの文字を打ち込む仕事をしている人は、指の関節や手首に障害が起きる。マウスを長い時間クリックし続けても同じ症状が現れ、しまいに指は動かなくなってしまう。これを防止するには、クリックの数を減らすことで、ダブルクリックよりシングルクリックに設定し直した方が良い。これはウインドウズならば、フォルダーオプションで簡単に変えられる。又マウスやキーボードの高さも重要なポイントとなる。そして一時間半毎にその場から離れ、気分を転換することも必要である。
最近はLCD画面のモニターばかりで、CRT(カソードレイチューブ、ブラウン管)方式が使われなくなってきた。昨今オーストラリアでも買い替えがブームで、いらなくなったCRTモニターをガラージセールなどでは5ドルか10ドル位で売っている。私は今でもこの17インチを使っているが、これはラジエーション(放射線)障害を起こす危険性があるので、なるべくLCD方式に変えた方が良い。又画面は目の高さより少し下、その距離は70センチ以上離すのが適当とされている。教材のコピーに下図のようなイラストがあり、その説明もされているから参考になれば幸いです。
オーストラリアには信じられない程、腰を痛めている人が多い。世界的な傾向かも知れないが、これは食生活が豊かになり、身体を動かすことが少なくなったのが原因だと思う。生活習慣病、メタボリックシンドロームと同様、文明病の一つのようでもある。
このIT2コースでもその防止には大変な力の入れようだった。というのは、一度腰痛になったら、二度とリカバリーしないからであろう。誰でも解っている動作だが、実際にやってみると、そのとおり出来ない場合が多い。個々をビデオカメラで録画し、それを再生しながら実技指導となった。なんか小学生が学芸会の練習でもしているようで、バカバカしくなってきたが、授業でもあり、腰痛予防の為でもあるから、クラスメイツ全員、真面目に取り組んだ。
前述の如く、私は親譲りのダイヤベティ(糖尿病)なので、医者から食事療法と毎日運動をするように云われていている。体重は50Kgと少ないが、半年に一度の血液検査では腎臓、肝臓、コレステロールの量、その他いろんなチェックを受けているが、すべてクリアしている。腰に余分な脂肪もついていないから、背骨に負担もかからず、長い時間ガーデン仕事をしても腰は痛くならない。
このコースで特に重要だと教えられたのが、重い物を運ぶ場合、膝の屈伸を利用して持ち上げ、決して腰を使ってはならないとのことだった。
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99 オーストラリアの医療制度
[オーストラリアの医療制度]
オーストラリアでは国民すべてが国からメディケアカード(医療カード)を貰っている。でも癌や心臓病とかの大病をした場合、検査や手術をパブリック病院でしてもらうとすごく待たされる。時には六ヵ月後、一年後となり、進展の早い病気では死に至る。(又、手術はインターンが執刀すると聞く?まるで実験台となっているようだが?)
そこで任意の保険制度があり、裕福な人はたいてい、それに加入している。だいたい月一人あたり50ドル位、家族で加入すると少し安くなるという。
一般にプライベート病院では医療代は高いが、この保険に加入すると、どんな治療をしても5%の負担ですむ。それに待ち時間もなく、医師の技術レベルも高いときいている。私は現在加入していないが、将来入るつもりである。
通常のメディケアカードでは先ず診療所や病院でお金を支払った後、当局のオフィスへ行き、領収書を差し出すと約60%の返金(歯科医はなし)がある。血液検査所ではこのカードを窓口で出すと一切支払いはしない。
私がいつも行くゼネラルプラクティス(一般診療所)はバルクドクターと言って、このメディケアカードを差し出し、サインをするだけで、お金を払う必要がない。要するに無料。あとで医者が当局に請求するようだが、そのメカニズムの詳しいところは分からない。このようなバルクドクターも最近は少なくなってきて、ここの診療所も、近い将来このシステムを廃止しそうである。
さて、このメディケアカードのシステムだが、私がレストランを始めた頃(1985年頃)にはその支払い義務はなかった。途中から年間の利益に対して数パーセントを徴収されるようになり、この国に永住権のない人(日本から働きに来ていた会社員)でも、彼らはこの恩恵が受けられないのに、払わされていたのである。なんとも不公平な話しで、政府はこんな身勝手な法律を作っていた。この国では、すぐに法律を変えるから、現在はどうなっているのか分からないが、「海外の会社はお金持ち」だと思われているから、たぶんそのままであろう。
私の現在の年間収入ではその支払い額に達しないので、今のところ払っていない。なんと貧乏人には至れり尽くせり、優遇された結構な国であろうか。
愛媛県の宇和島市で腎臓移植ドナーの件で金品のやり取りがあり、大問題となっている。日本では提供者が少なく、それを待っている患者が非常に多いと聞いている。年間の移植手術は数パーセントに止まっており、こんな事件の発生する原因でもある。
今から十数年前、オーストラリアで中国系のドクターが自宅前の道路で車から降り際、22口径の拳銃で射殺された。彼は有名な心臓外科医で患者の中には、富豪家でギャンブラーでもあった故ケリーパッカー氏もいた。新聞ではこの殺人事件を大々的に報道されていたが、その動機に付いては書かれていなかった。
あるとき私の店に、若い中国系のお客さんがやって来た。たまたま医療の話になり、この殺された心臓外科医の話題となった。私は耳を疑ったが、この事件にはこんな裏があったという。
このドクターは現在の移植臓器の供給制度に反対し、その運動を続けていたという。優秀な外科医だったから、毎年かなりの患者の移植手術をしていたと思われるが、その臓器類は主に中国大陸から大量に来る。それも死刑囚だというのである。中国では無実の罪の人や政治犯でも処刑され、その内容はベールに包まれたままである。それが毎年かなりの数らしいのだ。それを取り扱う専門のシンジケートがあって、彼はそこから送りこまれたヒット屋によって、殺害されたというのである。これには中国政府も何らかの形で絡んでいるとのこと、病院側もそのカラクリは知っていて無視しているのである。ドナーは無償のはずである。しかし移植手術が高額なのは、この金額が含まれているからではなかろうか?
オーム真理教の麻原被告とか奈良では幼児殺害の小林被告の死刑が確定した。彼らも処刑される前に、ドナー者としての可否を問われることであろう。さてあなたが移植手術を受ける立場だったら、一体どうされますか?

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98 オーストラリアの医療
[オーストラリアの医療 ]
このITコース受講の三ヶ月前に軽い風邪をひいた。すぐに良くなったが、しばらくして右耳がほとんど聞こえなくなってしまった。医者で調べてもらったら、風邪によるウイルス菌が原因だと言う。そして精密検査が必要だからとスペシャリストに紹介状を書き、ブッキングをしてくれた。
NHK国際放送テレビ「きょうの健康」で知ったが、鼓膜の裏の耳小骨で拾った振動を電気信号に変換する器官が蝸牛で、その部分がウイルス菌で侵された為に難聴となり、快復には長い期間が必要であると報じていた。ちょうどコンピューターがウイルスに感染して、マザーボードやハードディスクドライブを壊したようなものである。パソコンだったら、ウイルスソフトで退治、又はOSのクリーンインストールをして簡単に回復出来るが、人間の場合はそうはいかない。蝸牛の細胞組織が増殖し、元どおりの形になるまで待つしか方法がないのである。
後日、耳科のスペシャリストから、ブッキング時間確認の電話があった。検査費用を聞いたら、なんと650ドルだと言う。治療代だったら納得出来る。しかしただの検査である。そしておそらく、その回答は、自然治癒を待つだけとなる。検査仕事を期待していたスペシャリスト受付嬢には悪いと思ったが、その場でブッキングをキャンセルした。
私が中学一年生の時、パチンコ(私の田舎ではゴム打ちという)で右目を打たれ見えなくなったことがある。一年生から三年生までの全校生徒が担任の先生の引率で、和歌山の日の岬灯台へ写生会に行った時のことである。二年生の悪ガキどもが、われら下級生に向けてパチンコで狙ってきた。数人が草むらに伏せ、私が顔を上げた途端、玉石が飛んできて右目下瞼に当たった。一瞬激痛が走り、治まった後、右目を開けると、真っ白いスクリーンが貼って何も見えなくなってしまった。即刻タクシーを呼び、日高病院へと駆けつけた。
当時この病院には専門医がいなかったので、一週間の入院生活の後、大阪の警察病院へ移動した。警察病院では検査のあと通院するだけで済んだが、そのとき二種類の点眼薬を渡された。一つは治療用、もう一つは瞳孔を閉じる役目をした。人の目は明るさに応じて瞳孔が閉じたり開いたり自動的に調節される。その薬を点すと瞳孔が閉じたままとなり、暗い場所に入っても、その調整がなされず、左右の目の明るさが違って非常に見づらいのだった。
人体の自然治癒能力はものすごい、数ヶ月後、瞳孔の自動調整は完全に復帰した。しかしその時は気付かなかったが後遺症が残っていたのである。それが年齢と共にひどくなって、右目がかすむようになってきた。
片親が糖尿病だと子供の三分の一に遺伝するという。私もそのとおりとなった。軽い方で助かってはいるが、6ヶ月に一度の血液検査、又一年ごとに目の検査をしている。この時、50年前に起きた右目の事故のことを話したら、ビジョンセンターに来てスペシャリストに精密検査を受けるようにとすすめられた。
ここは総合病院のちょうど真向かい、最近出来たガラス張りの立派な建物であった。受付には綺麗な三人の女性が座っていて、テレビドラマで見る超近代的な施設、眼科の特別クリニックの感じがした。
しばらく待って検査が始まった。壁に貼った視力表を読むテスト、分けの解らぬ器械を使っての焦点検査、それとドクターの問診、すべていつもの検査より簡素だった。違ったのは各検査の待ち時間の長さだけである。最後に受付嬢のカウンターまで行き検査の結果と手術の見積もり書を手渡された。立派な表紙が添えられていた。そしてそれを見ながら説明を聞くと、手術の成功率は95%、費用は2120ドルだという。もしこの金額を払って手術をし、5%の不成功の中に入ったら一体どうなるのか? 私はその場でノーサンキュウと断った。ちなみにこの検査費は165ドルだった。

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97  I T 2 コースの課目
[IT2コースの課目]
日本のITコースではどのような種類の課目があり、どのような教育をされているのか、私には分からない。ITの専門学校や総合大学等、教育機関が違えば課目の種類とか内容も異なってくるのだろうか? 又教室にはどんな機器が備えられていて、どんな授業が行われているのかにも興味がある。是非一度、日本で受講したいと思っている。
過去ブログでも記したように、私はこの国でプレ電気工事科と初級電子科コースを受講した。両方ともほぼ同じ課目数で、後日電子科必須の課目を追加受講した。その時の合計は23だった。
今回のIT2のコースは15で、上級コースになると別の項目が加わってくる。さて、ここにはどんな種類の課目があるのか次に記しますが、日本語に訳すとうまく表現出来ない部分がありますので、英文のまま記載します。

ICA20199 Certificate II Information Technology
 Receive and process oral and written communication
 Maintain equipment/software inventory
 Interact with clients
 Connect hardware peripherals
 Install software applications
 Maintain system integrity
 Work effectively in an Information technology environment
 Communicate in the workplace
 Apply occupational health and safety procedures
 Operate computer hardware
 Operate computing packages
 Maintain equipment and consumables
 Design organizational documents using computing packages
 Integrate commercial computing packages
 Access the Internet

以上が サティフィケイト2コースの内容である。何のことやら理解できない課目もあって、どんなに複雑で難しい授業をするのだろうかと思うが、実際に受講してみれば、さほど困難ではない。アメリカや日本よりも遅れたIT技術の習得であって、課目のタイトルは立派でも内容はたいしたことはない。還暦に近い者が、常に言葉のハンディキャップを感じながらも、チャレンジに成功出来たのである。
コンピューターに興味のある人、又日本でITコースを受講したことのある人達には、オーストラリアのITコースではどんな時間割で、どんな授業をされているのか興味があると思う、次に詳細に記述していきたいと思います。
このクラスは16週間のフルタイムコースで月、水、木曜、8時から2時〜5時まで、金曜は午前11時で終わる。上級コースでも同じようなプログラムで少しタイムテーブルが変わるだけである。
一つの課目が終わると20分間の休憩時間があって、教室を移動するが、当時、どの部屋にもOSの違ったパソコンが設置されていた。 前の授業の記録はフロッピーディスクに収められ、常に所持しているから、移動してもすぐに次の作業が始められる。このFDは実践した証拠品としてコースの最後に提出が求められている。

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96 I T コース オリエンテーション
[ITコース オリエンテーション]
メインビルディング横にシアターと呼ばれている建物がある。座席が急勾配の階段状になっていて、見下ろした位置に演台が置かれ、講師陣はそこで教鞭をとる、大学での授業風景の見慣れた場所である。GCアッシュモアーキャンパスは造りが小ぶりで最大の収容数は300名程度だろう。
今日は150名近くが集まった。後部座席は誰も座っていない。マルチメディアコース、ITコースではサティフィケイト2、3、4とディプロマ、それぞれコースの学生達である。この学部は半年単位で上級ステップに進むが、ディプロマは一年間コースとなる。それ以上学びたい場合はユニへと進学する。
10ページのブックレットを渡された。6年前の電気科入学時にあったような一般的な解説を中心に、学生のルール等、それに講師陣の紹介もされた。フルタイムの先生は16名、パートタイムでは7人となっている。講師陣の数に比べてITコースは学生数の少ないのに驚いた。これは上級になるほど人数が減ってくるからであろう。
サティフィケイト2はA,B,C,と3クラスに分かれている。各12名ずつ、コンピューターの設備の都合上そうなったらしい。私はクラスC、若い学生が殆どで女性が3人いた。若い女性は15、6才位、次は20才前後、五十過ぎのおばさんが一人いた。男性は25才前後がほとんどで最高齢が35才位だろう。私だけ異質の年齢である。全員一応パソコン全般の操作が出来、もっと勉強したい人達が対象となっている。
教室はメインビルの二階で廊下を挟んで、合計8箇所ある。各室には違った種類のパソコンが置かれ、サティフィケイトコースとディプロマコースがお互いに共用している。その中二つの部屋が教員室と事務室、そのフロント側に受付カウンターがある。廊下には椅子が置かれ、他のクラスが教室を使用している場合、そこに座って待つのである。
廊下の壁にはスケジュール表が貼られ、曜日、時間、クラス別にどの教室を使用するかが書かれてある。又学生同士のコミュニケーションのボードがあって、そこでは売りたい品物とか、アパートの同居人とかを募っている、どこにでもある掲示板である。
珍しいディスプレイがあった。マザーボード類、フロッピィディスクドライブ、CDロムドライブそれにハードディスクドライブと、すべて分解した状態で、古い形式から最近のモデルまで順番に並べ陳列されていた。今までの技術の推移が一目瞭然である。ITインダストリーは急速な技術の進歩で目を見張るばかりある。今この時点でも世界のどこかで新技術、新製品が開発されているのだ。
私は2001年の2月、初めてパソコンを買った。当時CPUはインテル製が主流でペンティーム3、クロックスピードは最高が1GHz、メモリは248MB、HDDは60GBが高級品となっていた。CDバーナーはすでに普及していたが、DVDロムは出始めの頃である。
パソコンは地方よりも都会の方が安く、私はわざわざブリスベンまで買いに出掛けた。知り合いの薦めで、ランクが一段階下の17インチモニター付き、P3、866MHz、128RAM、30GBのハードディスク付を選び、CDバーナーとDVD Romドライブを追加してもらった。合計2,171豪ドル、これにはオペレイションシステムは入っていない。OSはウインドウズMEが出始めていたが、あまり評判が良くなかったので、あえてウインドウズ98 SEの日本語版をインストールしてもらった。
若い店員、日本語は全く理解出来なかったが、手順は日本語版も英語版と全く同じであった。日本語は知らなくても、時々私の通訳をまじえながらのインストール、まったく問題はなかった。

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