ちょっとチャレンジ!
豪州ベンチャー起業ブログ


プロフィール

Author:kenny18
FC2ブログへようこそ!



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



Powered By FC2ブログ

Powered By FC2ブログ
ブログやるならFC2ブログ



86 あとがき

[あとがき]


 オーストラリアでポピーシンドローム(けしの花症候群)という言葉をよく耳にする。私はまだ見たことはないが、けしの花は高さが一定、頭がすべて揃っているという。 中に一本だけ飛出た花が現われると、周囲からつるが伸びて、その花に巻きつき、殺してしまうそうである。 この国はそんな国民性が強く、政治、経済、他、各分野でそのような傾向がみられ、彼等自身もそれを認めている。


 大実業家として英雄的な存在だった、アランボンド氏もその犠牲者の一人だったと伝えられている。 以前ではポーリンハンソン氏、前述のように、言いたかった事を言ってくれる右翼政治家として水星の如く現われ、農村部保守層から絶対的な支持を得て当選、ワンネイション党を結成、1998年6月のクィーンスランド州議会選挙では大躍進を遂げた。 ところが同年10月、彼女自身の連邦総選挙では落選してしまったのである。


 そこそこで民衆の代弁者だったら良かったのだが、余りにもカリスマ的存在となり、同党議員がストレスを理由に辞職、又造反して離党議員が続出、半数以下となり、今後の持続さえも危ぶまれている。 彼女自身記者会見でこれはポピーシンドロームであるとはっきり言った。


 外国生活をする日本人もお互い足の引っ張り合いをし、この傾向にあると聞く。 外地での成功者が少ないのは、その為だとも言われている。 過去の歴史が物語っているのだろうが、外国に住む者として良く思案せねばならないことである。


オーストラリアには浮浪罪という法律があり、寝袋などで公共の場所に寝ていると逮捕される。 それでもポリスの目を逃れ街頭で生活している人達がいてホームレスと呼ぶ。


また家庭が面白くないと家出をし、集団で空き家とかドカンの中で暮らしている子供達をストリートキッドという。 夜中に商店を襲ったりするのは彼等だと言われているが、ホームレスと同様、政府とか慈善団体から食事等の世話をうけ手厚く保護されている。


失業者政策等、社会福祉行政を重視するのは、これ以上犯罪を増やさないためだと政府、国民も真剣にそう思っている。 ポピーシンドロームは飛出し部分だけでなく低層からの引上げも意味するものではないかと思われる。


 この国の教育政策は至れり尽くせりで、修学給付金制度とか学校設備の充実は目を見張るばかり、年齢に関係なく生涯教育の場として完全にその体制が整っている。 私もその恩恵をたっぷり受けさせてもらった。


 テレビで国会の生中継を観ていると、周りに連邦議員が取囲むように座っていて、 真中に大きなテーブルが置かれ、それを挟むようにして、与党閣僚と野党陣営のシャドーミニスター(陰の閣僚)と呼ばれる人達が座っている。 正面に議長がいて、その後の高台に裁判官のような人が座り法廷のような雰囲気である。 議員が嘘をつかないよう監視しているみたいだが決して堅苦しくない。 質疑応答ではヒヤかしのようなヤジを飛ばしつつ、仲の良い兄弟喧嘩のように討論をし、いつも議長からオーダー、オーダー(静かに、静かに)と叫ばれている。 重々しい日本の国会とは随分違った風景である。


 最高級車を持っている大実業家、 又は連邦の大物政治家、 閣僚でさえ自分で車を運転し、首都キャンベラ周辺の二流レストランで食事をする姿を見掛けるという。 現首相も初期、連邦議事会館内の売店に並び順番を待っていて、 ランチにポテトチップを買ったが、居並ぶ人も先を譲らなかったそうだ。 列に並ぶ首相、平気でそれを見過ごす売店の従業員や周囲の人、国民一般に、それはなにも特別なこととは思っていないのだ、「これはスゴイ!」と日系新聞が伝えていた。


 私がレストランをしていたとき、当時、二期目落選中の元市長が娘さんに連れられて、やって来た。 娘さんは常連さんで、そのときまで市長の娘とは知らなかった。 彼女の大好物、焼き肉どんを二人で仲良く食べて帰った。


 近くの小さなレバニ−ズレストランには、前々回の連邦首相が遊説の途中、うまさを聞付けてやってきた。 私は耳を疑ったが事実であった。 ところが、そんな有名人が来店しても良いコマーシャルとはならない。 一度食べに行ってみたいとも思わない国民性なのである。


 首相になっても、次の党首選で敗れ、また与党が敗北した場合、年齢に関係なく、潔く政界から身を引き、一般庶民となってしまう。 頂点を極めた者、後進に道を譲るためだと思われるが、首相歴議員及び年配者の多い日本の政界とは臨分違っている。 その良い、悪いは別として、常に浄化されている感じがする。


 それでいて「政治家になったのは金儲けのためである」と日本人が聞いたら「ドキッ!」とするような言葉を平気で云った連邦首相もいた。 しかし国民はそれには一切抗議はしない、むしろ納得しているのが面白い。


 まだ私にはオーストラリア人の気質や習慣で知らないこと、分らないこと、不思議なことが山ほどある。 大きな国土、自然環境の中、地理学的、文化人類学上でも未知で隠された部分が多数残されている。 調査によると5万年の歴史、芸術文化遺産を持つ原住民、近代文明の中、今でも古代と現在が背中合わせで生き続けている。 その他、底知れぬ面白さ、魅力溢れる楽しさいっぱいの国、それがオーストラリアである。 もしかしたら、ここが現在のユートピア、地上の楽園と言えるのではなかろうか。


 


 


追記:このストーリーは一応終了させて頂きます。 最後まで読んで頂き、真に有難う御座いました。  後日談又は最新の情報等は記事が出来次第投稿するつもりです。 日本では信じられない話題、体験等、面白い出来事が沢山あります。 楽しみにお待ち下さい。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

85 スタート台に立つ!

[期待外れ]


 さて日報提出に学校へ行くと、ちょうど教官ジャックがクラスで教えていた。 教室の中から、彼に呼びとめられ、授業が済むまで待ってほしいと言う。 私は例の話だなと思い、教室の中に入って待つことにした。 生徒は十数人勉強していて、新しいコースがすでに始まっていた。


 私が職場体験をしていいた数週間で状況が一変していた。 生徒が教室から出て行くと同時に、彼は詳しく説明を始めた。 頼りにしていた息子は、英国で滞在中、東南アジアの女性と知合って結婚することになった。 そのビザ取得が長期に渡っていたが、やっとおりて来た。 そしてメルボルンに住むことになった。 彼は教員の免許を持っていて、すでに学校への就職が決まったとの事である。


 教官ジャックも、新クラスを教え始め、忙しくなってきた。 そして学校を辞めることがなくなり、電気会社の設立を断念することになった。


 電気工事業より教員の方が楽で給料も良いから当然のことである。 私は期待が外れ残念だが、諦めることにした。


 ジャックは、私に大変気を使って、友人の電気業者数軒に電話をし、受入れを頼んでくれた。 一ヶ所だけ興味があって、こちらから電話を入れたら、アプレンティスシップは取りたくないとの事、その理由を聞くと、契約期間の長すぎと責任の重さ、又、通学させるので、十分仕事をやって貰えないからだと言った。


これだと余程のコネがないかぎり駄目である。 親とか兄弟、それに親戚とかだ。 そう言えば、ヘアードレッサーのマークは姉が契約者だった。 電気科クラスのトニー、彼の父親は電気工事業の自営をしていて、職場体験授業と、アプレンティスシップも父親がなると言っていた。 でも世の中に、親の言うことを素直に聞き、技術をマスターし、勉学に励む子供がいるだろうか?


 私は、電気のライセンスコースは受講出来ず、これ以上進めなくなってしまった。 しかし、この調子の良い時にもっと勉強を続けよう。 それならばと、電子科のディプロマコースを受講することにした。


 オフィスヘ行くと、ジム教官に、ばったり合った。 私が手続きに来たのを知って、彼は「貴方が、この学校で学ぶのは、いつも歓迎している」と言った。 以前、コースの終わり頃、「必要ならば、何時でも保障人になってあげる」と、有難い言葉をくれた。 ところが彼は、この数ヶ月後、辞令が出て、他校へ転属になってしまった。


 オフィスでスケジュールを聞くと、電子科のディプロマコ−スは、来年の一月末からスタートであった。 それまで六カ月も持たねばならなかった。


 ふと教室の中を見ると、ルーカスが机に座って、何かやっていた。 フィリピン人のエディと仲良しだった彼である。 「そこで何をしているの?」と尋ねた。 「再テストを受けている」「まだ済んでなかったの?」「まだ残っていた」と、彼は何の拘りもなく答えた。 「がんばってね」と言い残して、私はその場を去った。


 私は、最後まで諦めずに、やり遂げようとしている彼の姿に感動した。 望みを捨てず、一生懸命頑張ろうとしている生徒、彼を見捨てない学校側、教官の態度にも深く感銘した。 ルーカスは、将来きっと、何かで成功する人になるであろう。


 来年からの電子科ディプロマクラスでは、かなり高度な英語力がいるであろう。 それが始まるまで、英語のレッスンを受けよう。 丁度一年前、電気科の課目で欠点を取ってしまった。11話、あわや!退学?」に参照。 私は英語力の不足で、危うく退学になりそうだった。 あの時、教官に当コースが終了したら、英語クラスを受講すると約束したが、その通りになった。


担当教官は四十才過ぎの女性で、狭い部屋に私が一人面接をうけた。 別の学校だったので、電気科と電子科コースの終了は言わないつもりでいた。 ところが同じ系列校である、もしかして、コンピューターのオンラインで繋がっているかも知れない。 この英語クラスは移民の人達の為にあり、もし発覚したら、まずいことになりそうだ。


 私は正直に言うことにした。 彼女は、課目の成績表を見ながら不思議そうな顔をして、「貴方は、これらの学科がパスしているのに、どうして英語のレッスンなど受けるのか?」と尋ねた。 「それらは、私の得意の課目で、たまたま運良くパスが出来た。 前コースの教官からも、英語力不足を指摘され、是非勉強したいのです」と答えた。 でも信用されず入学を渋った。 私が暇潰し、遊び半分で受講するとでも思ったのだ。 そうではないと一生懸命説得、それで、テスト用に持ってきたのが、新聞の切抜きと、ニュースを録音したカセットテープ、それを読ませ、聞かせて二、三の質問をした。 そして理解力に問題ありと認め、やっと入学が許された。 でもフルタイムのクラスには入れてもらえず、週に一度、夜だけのクラスとなった。



[スタート台に立つ!]


 私は、アプレンティスシップ契約主や、就職の雇用主を見付け出すのに電話帳からそれらの会社を選び、直接手紙を出すことにした。 今まで何の経歴もなかったが、この二つのコース終了で履歴書に立派に記載する事柄が出来た。 その書き方や、手紙の内容は、この英語クラスの教官から教えて貰った。 見るのも嫌だったキーボード、苦手だったタイプもこの英語クラスで学んだ。 以前のスピーチ原稿を馴れない手つき、コンピューターでワードプロセッシングしていると、教官がやってきて、徹底的に文章の手直しをしてくれた。 それを投稿したら機関紙に掲載された。


 私にはリタイヤはない。 身体が動く限り、働き続けるつもりである。 そして求学、チャレンジの精神だけは何時までも持ち続けたい。 常にスタート台に立つ、五十四才の若輩である。                                


       ーおわりー


     1998年12月 記 


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

84 オーストラリア症候群

 その二週間後、ガレージの床がべっとり濡れていた。 今度はオイルでなくさらさらして色が着いている。 調べたらラジエーターの水だった。 それがどこから漏れているのか分らない。 整備工場でもチェックを受けたが、やはりその箇所が見付からなかった。 で、そのまま乗ることにし家へ帰った。 ところが、次の日も、次の日も床が濡れる。 今度は、時間を掛け徹底的に調べて貰うことにした。 そうしてやっと、その部分を発見した。 冷却水の通っているエンジンカバーに目にも見えない程の亀裂が、長さ10センチに渡って入り、そこから水が浸透し、漏れていたのだった。


「そこは特殊部品で、製造工場に在庫がないから、日本からの取寄せとなる。 しばらく待ってほしい。 入ったら連絡する」と言った。 この国で、しばらく待ては、一ヶ月である。 私は、販売員に質問した。 「この車は、本当に新車なのか?」すると彼は、「メイビー」と答えた。 「この車はトラブルが多すぎて困るから、別の新車と交換してほしい」「それは絶対出来ない」「では同型の新車を得るには、いくら支払いをすれば良いのか?」すると彼は、定価の三分の一の価格を言った。「で、その車は、故障が起きず、問題はないのか?」「それは分らない」「この車のように、新車からのトラブルは良くあるのか?」「ある、その為に車には保障が付いている。 貴方の車は、まだトラブルが少ない方だ」 そう言いながら、私を整備工場まで案内した。 そこには同型車が数台修理中であった。


「日本では、こんなことは、絶対起こりえない」すると彼は、胸を張って、「ここは日本ではない。オーストラリアである」


この車の調子が良くなったのは、半年後からであった。 その期間、信じられない程の手間と時間が取られてしまった。


 後日、私のレストランへ日本の青年がやって来た。 彼は日本で整備士の免許を持っていて、シドニーの同系統の整備工場で半年間働いた経験があった。 彼言わく、「そこの社員は、自社製の車は絶対買わなかった」そうである。


 この車は、オーストラリア産だが日本の会社である。 私の車は、ステイションワゴン(ライトバン)で、そのデザインは良かったが、前の車と同様に塗装が薄く錆びも出やすい。 この同型車は、日本へ逆輸出され、ニ−スで大きな話題となった。


 オーストラリアでは、毎年一回、ベスト車、ワースト車の順位が発表され、テレビで放送される。 数年前、ワースト車の第一位に、その社製の車種が上げられていたことを思い出した。 まだ改善されていないようだ。 他のメーカーは生産工場を閉鎖し撤退した。 あるメーカーでは、人の手が信用出来ないからと、完璧なコンピューター管理の工場を作り生産を始めている。 このような問題を承知しながらも、気にせず何の改革や努力もせずに、いつもと変わらず、同じ調子で働いている。


 ここでは銀行員も、しょっちゅう計算間違いをする。 昔、レストランの小銭を持って行くと、目の前で数え、月曜日など何回数えても金額が合わず、連休の後はこれがもっと酷かった。 それでコイン名の書かれた用紙に巻かされ、又、所定のナイロン袋に入れて持っていかないと受け取って貰えなくなった。 で、一番困るのは、こちらの言った通りにしてくれない、意思疎通の問題でなく、間違ったり、忘れたりする事だ。 気が付くのが遅れ苦情を言いに出掛けると、担当者がホリデイに入っていたりする。


 一般会社員でも監理職の人でも、ホリデイに入ると強い。 天下を取ったような気持ちになるらしい。 どんな重要な仕事をしていても、ホリデイを最優先する。 突然に、しかも取引の相手には何も伝えないから、会社を訪問して、それを知る。 又、他の人に引継ぎもしないから、ホリデイが明けるまで当人を待つより方法がないのである。


 先日、わずかばかりとなった定期預金の更新をした。 区切りの良い金額にと普通預金から少し追加した。 すると証書が二つ送られてきた。 追加した方と、それが自動継続になった分である。 私の財産が帳簿上で二倍になったことになる。 こちらとしては、わざわざ苦情を言いに行くことはない。 おそらくコンピューターの入力ミスだと思うが、彼等は何時、気が付き、知らせて来るか楽しみに待っていた。 ちなみに間違った分は絶対貰えない。 後日、満期が来た。 間違って証書を送ったとも言って来なかった。


 知人が言った。 「この国の銀行員は六カ月間ミスがなかったら表彰される」と、すると側にいた友人は、「XX銀行では三カ月らしいよ」と言った。


 昔々、人工衛生を打ち上げた初期の頃、精度が99.9999パーセントの計算で選りすぐりのパーツばかりを使用した。 ところが、それでも故障が出る。 それで誤差を修正する装置を開発して、やっと月への着陸を果たしたそうだ。 ここでは銀行員に限らず一般社員がミスをしても、自分の責任は絶対認めない。 理屈に合わない言訳をし、それを修正していかないから、永遠にそれを繰返す結果となる。 ラッキ−カントリーと呼ばれている所以がそこにある。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

83 新車のトラブル

夕方、車を取りに行くと、ペーパーで錆びを落とし、上からハケで塗った素人はだしで、これならば誰にでも出来る、わざわざ整備工場まで持っていく必要はなかった。 車の履歴を見ると、購入日とラストフリーの期日とが、かなりずれていた。 途中で錆び出したので、慌ててラストフリーを施したようだ。 でもそれは外部からで、車全体の塗装が薄すぎるのだ。 工場では出来る限り作業の手間を省いて製造していた。 日本車のオーストラリア産として信じられない程の手抜き生産だと思った。


 彼は、オイル漏れを修理するには、相当高く付くと言う。 私は買い替えの決心をした。 何軒かのディーラーを回り、下取り価格の最も良い所を捜した。 でも結局、一番高く引取ってくれたのが、この車を買ったディーラーだった。


 これを買う前は、日本から持ってきた車に乗っていた。 1982年当時、この国への移住時、車を持ってくる場合、自分の国で半年以上使用した車は無税、新車ならば九十パーセントの関税が掛けられた。 ドイツからの永住者で、本国で計画を立てて高級車を買い、ここで売って儲けた知人もいる。 その防止に、こちらでも半年以上乗らねば売れないことになっていた。


 私には、オーストラリアでの車に付いて情報、その知識や計画性は全くなかった。 当時市内を走っている車は、ほとんど日本車で、中古車でも非常に値段が高く、円換算すると型の古い車でも六十万円前後もした。


 それで日本から持って来ることにした。 古いライトバンを徹底的に修理し、当時日本の法規で無装備だったシートベルトを取付け、大阪湾の埠頭まで自分で持って来て船積みをした。


 私がオーストラリアヘ到着すると、すぐにシドニー市内の荷受業者に依頼して車を待った。 しばらくして、船が着いたとの知らせを受け、書類を持って埠頭まで引き取りに行った。 前もってレジストレイション(登録)オフィスの場所を調べていたので、そこへ直行した。 日本では埠頭まで仮ナンバーを受けたが、こちらではいらず、ナンバーなしで市内を運転した。 もしポリスに質問されたら事情を言えば良いと聞き、そのおおらかさに安心した。 そこまでは順調だった。 さてオフィスで検査を受けると、三つの点が規格に合わず不合格となってしまったのである。 一つはシートベルト、日本で取り付けたのとは形式が違い、ここではワンタッチの三点式でなくてはいけない。 バックミラーが前方のボンネット上にあったが、調整がやり易いように、ドアーの外側に取り付けなければならない。 もう一つはテールランプのプラスチックカバーの色違いであった。 私は、係官からメーカーサービス工場の住所を聞き、早速駆込んだ。 でもその日は、とうとう車検は受けられず、部品を買ってアパートヘ戻った。


 翌日、部品を取付け、検査には無事パスをしたが、日本での整備費、輸送費、荷受け費等を計算すると、こちらで買う値段とほぼ同額となってしまった。 これなら、ここで買うべきだったのである


 


[トラブル続出の新車]


 さて、新車を買えば、同メーカーの車でも、昨今なら間違いはなかろうと思った。


一週間後に入荷するとのことで、それを持った。 当時ここでは、EFI(電子制御噴射)装置が付いた車が出始めていたが、フィリピン人の、彼の勧めで、私はあえてキャブレター式を選んだ。 EFI式はコンピューターでの調整が必要で、その機械を持っている整備工場が少ない。 それにキャブレター式は古くからあり、信頼性が高く修理がやり易いとの事であった。


価格は、以前の車の二倍だったが、下取り値が良かったので支払いは少なくて済んだ。


新車に乗り込むと車内は、その香りが辺り一面に充満していて素晴らしい。 私は爽快な気分で、レストランまで運転し、その夜仕事を終え、自宅に駐車した。


 次の日、ガレージから車を出すと、床になにか見えた。 オイルらしい液状の物だ。 何かの間違いだろうと確かめたら、やっぱりオイルだった。 車の下を覗き込むと、ギヤーボックスとシャフトの連結部分に、今にも零れ落ちそうな、油滴がぶら下がっていた。 電話でディーラーの担当員を呼出し、それを伝えたら、すぐに持ってくるように言った。 レストランとは反対の方角である。 オープンが遅くなるのを覚悟で車を走らせた。 早速、車をリフトアップして点検したが、その漏れている箇所が分らない。 購入したのは昨日、でも特別扱いはしない。 ブッキングをし、修理は三日後になった。


 修理の日、代車を借りてレストランヘ出勤をした。 午後、車を取りに行くと、「たぶんシャフトのシールからで、それを取替えたから、もう大丈夫」と言った。 この車は前輪駆動車で、この方式になってまだ間もない、研究不足からの故障かも知れないと思った。


 翌日、ガレージの床を見ると、全く同じ場所にオイルが落ちていた。 そして、同じ部分から油滴が今にも落ちそうになっている。 電話すると、前と同様に修理日が指定された。


 その日の午後、車を取りに行くと、「シールが旨く入っていなかった。今度は大丈夫」と言う。 でも翌朝、やはり床の同じ場所に、オイルが漏れていた。


 ディーラーには大がかりで立派な整備工場があり、技術者が大勢働いている。 彼等でも原因が見付け出せないのかと不思議に思った。 次はシャフトの連結ケースのガスケットを取替えたがやはりオイル漏れした。 今度は、そのケースの取替えをすることになり部品を製造工場まで注文した。 部品の入荷に一週間掛かり、そしてそれを取替えた。 しかし同じだった。 「もしかしたら、シャフトが曲がっているのかも知れない」と物騒な事を言いながら、もう一度、同じ部品を取替えたところ、不思議なことに、やっと漏れが止まった。 買った日から、すでに一ヶ月半も発っていた。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

82 契約雇用主

終章


[契約雇用主]


 授業で、「職場適正のカギ」という課目があった。 新任教官ジャックが、私に何度となく口説いた。 彼は今、この学校で教えているが期限が決められ、いずれ辞めねばならない。 彼と息子は電気のライセンスを持っているので会社を創設し営業を始めたい。 この町にはたくさんの日本人が住み、そのマーケットも狙いたい。 日本語が必要なので一緒にやらないか、とのことであった。 私にとって願ってもない話だったので、オーケーと返事をし、職場体験授業が済めばもっと具体的に話合う約束をしていた。 その時、私は一つだけ条件を付けた。 「将来電気のライセンスが欲しい、アプレンティスシップ契約をしてくれるならば」と、「その期間中は低給料だが、それでも良いのか?」「是非、試してみたい」と私は答えた。 切詰めた生活には、すでに馴れていた。 ぜいたくには天井がない。 すればする程、空しく感じるが、いろいろ工夫をこらして質素に生きる方がずっと喜びが大きい。


でも単に仕事をするだけではつまらない。 私には何か目標とかチャレンジが必要であった。 器具修理や配線等、幅広く電気関係の仕事をするには、どうしても電気のライセンスを取らねばならない。 電子関係には、アプレンティスシップによるライセンス制度がないかわり、ディプロマコース(上級クラス)が作られている。 でもその修理に、前述のようなディストリクトライセンスが要り、その取得には三年間の実績がいる。


 電気一般業務のライセンスは、契約後の授業で、二十五課目を三、四年間掛けて勉強しパスしていかねばならず、順調に行っても、ライセンスが貰え自営が出来る頃には、私は六十才になっている。 その年でライセンスを貰っても意味はない。 でも、チャレンジはしてみたかった。 もしかして、この年齢で、オーストラリア初、電気のアプレンティスシップとなるかも知れない?


 


[国産自動車]


 日報提出の為、学校へ行こうと車をガレージから出した。 するとべっとりコンクリートの床にオイルが漏れていた。 私は、ふと十年前、この車を買った頃を思い出した。


 レストランに移住して間もない二十五才になるフィリピン人がパートタイムで働いていた。 彼は重量車両の整備士で、その業界での仕事が見付かるまで、しばらく手伝って貰っていた。 当時私は、妻が追突された車に乗っていた。 事故の後、すっかり修理され調子は良かったが、ある時、彼にエンジンを見せたら、トランスミッションからオイルが漏れているのを発見した。 それに電気系統の配線がどうも変で、これは工場出荷時の状態でないとのことだ。 その車は買って三年になっていた。 ディーラーから、新車に近い中古車として、この車種では高級の部類で非常に安かったから買ったのである。 エンジンの調子は良かった。 でもしばらくすると、フロントガラスの上部とか、ボンネットやドアーの縁から錆び始めた。 ある程度のトラブルは覚悟していたが、ディーラーに持って行くことにした。


 ここは海岸地帯で錆び易い。 それを防ぐために、新車を買ったらラストフリー(錆び止め)塗装をする。 二重構造になった鉄板の内側にネバネバした塗料を吹付け、中から錆びが出ないようにするのである。 この車はそれをしていたにも拘らず、錆び出した。


 ディーラーヘ行くと、「それはラストフリーをした業者の責任だから、そこへ持って行くように」と言った。 早速、業者を訪ねチェックを受けると、「これらの錆びは中からでなく外部からで、当社にその責任はない」と断わられた。 再びディーラーに戻り、苦情を言ったら、次の日に塗装をすることになった。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

81 お年寄りクラブ

[お年寄りクラブ]


 クィーンズランド州とニューサウスウエルズ州のボーダー(州境)には、昔からクラブの施設が多い。 又、公然とポルノショップもある。 ポルノは首都キャンベラとノーザンテリトリー州だけが解禁になっていた。 通信販売で、そこの業者から買うと、毎月うるさい程、カタログが送られてきて、世界中のビニ本や道具類、ビデオテープが買え、その中身は、「ものすごい」の一語に尽きる。


 セックスワーカー(売春婦)はクィーンズランド州では会社組織としては違法だが、個人営業ならば許されていた。(1999年に法律が改正され会社組織もある) ニューサウスウエルズ州では、シドニ−市内に、世界に上場された株式会社があるそうだ。 それで業種を分類する為に、セックスインダストリー(セックス産業)という言葉があって、セックスワーカーと共に公用語となっている。


 毎年シドニ−市内の大通りで、ホモとレスビアンの大パレードが開催され、世界中からそれらの人々が集まって来て、テレビでも報道されている。 クィーンズランド州ではホモ同士の結婚も認められていて、私がレストランをやっていた頃、お客さんの中にそのような人がいた。


 夜、通りでヒッチハイクをしている若い女性達は、たいていこのセックスワーカーだと聞く。 相場も高くないらしい。 彼女達は、舌の中央部に穴を開け、ピアスをし、乳首、へそ、その回りに入れ墨をし、リングをはめている。 そして、最も大切な部分にもはめている娘がいると云う。 すべて感度を上げるためらしく、医者がその手術をするそうだ。


 二十歳前後の精神的未熟女性がたとえそれを望んでやって来ても、「そんな所にするものではない」と言い聞かせ、思い止ませることが出来ないものだろうか? 医者ならば社会的、道徳的にも並以上の教育者だと思うのだが? 


この国には、日本の様な、やくざ、暴力団はいない。(カジノを取り仕切っているのはマフィアだと聞く) 紐が付き、妙にぐれていて、なげやりな態度で、一見それと分る風体はしていない。 ごく普通の一般家庭の娘さん達で、 その中には、前述のヘロイン患者も多く、一日に200ドルも必要な娘がいて、そのお金を稼ぐ為に、体を売っているのだと言われている。


 ティム社長と共に、次の訪問先は、このポルノショップのすぐ近く、そこは建築して間もない室内ローンボール競技場、全員白い服装に帽子を被った清潔な姿でボールを転がしている。 なぜかお年寄りが多いスポーツである。 屋外の場合は芝生、特製芝刈り機でフェルトのように毛足を短く刈られる。 最近は屋内に、その設備をした建物が出来、その場合はカ−ペットが敷き詰められている。 天井が高く、ガラス張りになっていて、そこから太陽が差込んでいた。 ポーキ−の設備やレストランもあるが、ここには遊戯機が置かれていなかった。 ティム社長は「子供達が来ないからだ」と言った。


  彼はここのポーカーマシーンのメインテナンスをやっていた。 これにもライセンスがいり当局の管理下に置かれている。 今日は追加する電気設備の下見だった。 彼は、ここで働くスタッフ全員に愛想を振撒いた。 いつも一人で来るが、今日、私を連れているので、いちいち彼等に紹介した。 ビンゴゲームをしている部屋に入った。 そこには、七十才以上のお年寄りばかりが二百人近く椅子に座ってゲームをやっていた。 彼等は一斉にこちらを振向いた。 プロレスラーのような大男が、競馬のジョッキーのような小男を連れ、歩いているのが珍しかったのか? 何とも言えぬ異様な視線を感じた。 私は急いで、そこを通り抜けた。


 


[お祝いパーティ]


 しばらくして、会社にパーツが届いた。 私も大きなディスプレイボードに集積回路を取り付ける作業で忙しくなった。 しかし体験授業は、残り一日だけとなった。 せっかく仕事が増えて来たのに残念だ。


 最終日の午後、私のためにとケーキを用意し、休憩時間をわざわざ取って、社長夫妻とスタッフ全員で祝ってくれた。 私は誕生日のようにケーキにナイフを入れた。


 私から、体験授業場所を提供してくれた御礼に、曙と小錦の手形色紙一枚ずつ、額縁を付けてプレゼントした。 折しも、相撲協会がオーストラリアを親善巡業していた最中だった。 その中に、両関取もいて、テレビで放送され、ティム社長も知っていた。 彼は色紙の手形の上に、自分の手を重ねた。 曙の方がずっと大きかった。


  私が、この職場に来た時、作業場の汚さに驚いた。 作業後も全く掃除をしないらしく塵で汚れた台の上に、道具と部品が放置され、床には紙や空カンが散乱、歩くとほこりが舞い上がった。 私は女の子に尋ねた。 「掃除は、何時もクリスマス前にするの?」と、私が掃除するつもりで聞いたのである。 それが奥さんの耳にいやみ]と聞き取られ、明くる日、私が外回りから帰ってくると、ビックリするほど、きれいに掃除されていた。 それ以来、私は奥さんに嫌われたらしい。 ティム社長が色紙を貰って喜んでいるその横から奥さんが言った。 「それはオリジナルではないのでしょう?」と、やはりここでも、見ざる、聞かざる、言わざるが良いらしい。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

80 退屈な一時

 何もすることがない程、退屈で嫌な事はない、椅子に座っていると眠くなってきた。 ワークショップ(作業場)を、うろうろ歩いていたら、コインがどっさり入った缶を見付けた。 機械のテスト用として置かれたもので、一ドルコインも沢山あった。 これはやばい、この近くにいるといかん。 戸外に出た。 真っ青な空に太陽がさんさんと輝き、冬とは思えぬ陽気であった。 私は運動の為、付近の工場地帯を散策することにした。


 午後、奥さんが気を使って、「今日ティムは出社しない。 やる仕事もないので、帰宅して下さい。 日報にはサインをしましょう」と言った。 私は二つ返事で、喜び勇んで帰途についた。 家ですることが山ほどあったからだ。


 次の朝、女の子に、「何時から作業を始めるのか?」と尋ねた。 「パーツが入り次第」「それは何時か?」 「たぶん今日の午後か、明日だろう」 とはっきりしない。


 ここでは、明日の意味は二、三日後、次週では二、三週間後となる。 今日入荷することは絶対ありえない。 彼女達もすることがないので雑誌を見て、二人でパズルを始めた。 仕事量が少ないのに、スタッフに給料を払っていけるのが不思議でならない。 フルタイムを一人雇うと最低でも週に四百ドルはいる。 一年後からは四週間の休暇を与え、その期間は、ホリデイペイ(休暇給)で、通常の17パーセント増しの給料である。 それに年金は給料の7パーセント(現代9%、近く15%となりそうである)で雇用主負担となっている。 余程、業績の良い会社でないと、人は雇えない。 人手のいらない遊戯機械からの売上げが、かなりあっても、その償却や経費がいる。 それにエリックにも、相当な高給を出していると思われる。 前に一度、彼に聞いてみたが教えなかった。


 ティム社長が出社してきた。 私に早速お呼びが掛かり、今日から彼の助手として、外回りをすることになった。 最初の先はアカウンタント(会計士)オフィスであった。 ここではコンピューターの付属回路の取付けで、私は言われた通り作業をした。 彼の会社のお抱え会計事務所でボスを始めスタッフ一同が非常にフレンドリーであった。 私もコーヒーを勧められて、御馳走になった。


 


[会計事務所]


 私が商売をしていた頃、最初のドーナツ店から、次のレストランが取壊しになるまでの十三年間、ずっと同じ会計士に依頼していた。 彼は事務所を三度も移転したが、私はその度に、あとを追掛けていった。


 オーストラリアの年度末は六月である。 私は、毎日帳簿を付け、決算が来ると、その期日までに収支を完全に計算した。 そして納税申告書と同じような書き方をし、出来るだけ手間の掛からないようにして手渡した。 彼は国税局所定の用紙にタイプで記入するだけでよく、いつも私の記帳を誉めてくれ、手数料も安かった。 やがてレストランが取壊しになり、年度末がやってきた。 営業はわずか五カ月間、その申告で、何時ものように帳簿を渡し、短い期間だから、少しは安くなるだろうと期待した。 ところが請求書を見て驚いた。 割引どころか、今までにない高額を要求されたのだ。 帳簿を持って行った時、彼が尋ねた。 「将来、再びビジネスを始めるのか?」と、私は通学していたので、「レストラン業はもうやらない」と、答えた。 「しまった」それが原因に違いない。 うっかり本音が出てしまった。 「場所が見付かり次第、すぐに始める」とでも言えば良かったのだ。 長年の顧客関係など、ここでは通用しない。 それよりも、次に仕事があるかどうかである。 又、長い期間、一ヶ所に依頼すると、他に頼む所がないとして、軽蔑される傾向もある。 ビジネスに対する文化の違いだろうか?


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

79 有名スポーツクラブ

[有名スポーツクラブ]


 次の日も、エリックの助手として、ブリスベンまで出掛けることになった。 途中で三箇所スポーツクラブに立寄り、いつものように、機械からコインを取り出した。 クラブ施設側は場所と電気代を提供し、売上金の二十数パーセントをコミッションとして受取る。 彼は週に一度、その集金に来て、金額を勘定した後、それを渡す、その作業は、何時もオフィスでするのだった。


 ブリスベンはラグビーで有名なブロンコチームのクラブハウスだった。 オーストラリア最強のチームで、九十八年度も優勝した。 強いクラブは活気が違う、ホテルを思わせる正面玄関からは、人が頻繁に出入りしていた。 立派な建物だが、グラウンドが意外と狭いのに驚いた。 申し訳に付いている感じがした。 都心から、そう離れてなく、家の建て込んだ地域である。 選手達は、何時もスタジアムを借りて練習していた。


 平日の午前中にも拘らず、建物の中に人がいっぱいだった。 狭い部屋に遊戯機がぎっしり置かれ、それぞれの機械にはコインがどっさり入っていた。 今までのスポーツクラブにない、ここが最高の売上げをしていた。 エリックは機械からコインを取り出した後、ビリヤード台(玉付き)の上にコイン勘定機を乗せ、突然、お金の計算を始めた。 ゲームをしている青年もいて公衆の面前である。 ここではいつも、そうしているらしい。 通常は彼一人、背後からポカンとやられ、お金を奪われる危険性が大である。 オフィスが狭いからなのか? 又、遊戯機のコミッション等、はした金で勘定に立会う程でないと思っているか? 常に勝者のクラブ、お金持ちで細かいことは言わないのかも知れない?


 


[ワークショップでの作業]


 翌日からは、ワークショップでゲーム機械の修理を手伝った。 この会社ではポーカーマシーンの側に置き、リモコンで係員を呼出す装置を製造していた。 ハガキ大のプラスチックケースに電子回路を組込みスイッチが付いている。 天井から吊るされた大きなディスプレイボード(表示板)に連動されていて、これはビンゴゲームにも使用されていた。 ティム社長が、これらを設計したそうである。 彼は元オーストラリア空軍にいて、ジム教官を良く知っていた。 空軍には優秀な人材が多くいるようだ。 二人の女の子はその組立をしていた。


次の日から、私もその作業を手伝うことになった。 私はハンダ付けには自信がある。でも彼女達の方が一段と上手だった。 速さ、きれいさで仕事上、しつかり鍛えられているからだ。 時々ティム社長も点検にやって来た。 小さな部品が、いっぱい付いたプリント基盤を、丹念にチェックしている。 大男と極小パーツ、その取り合せは、何となく滑稽で、吹出しそうになったが、それを押えた。


 


[仕事量不足]


 二週目から作業がめっきり少なくなってしまった。 先週、プラスチックのスイッチケースを大量、ボール盤で穴開けをした。 今週はその組立をするのだろうと楽しみにしていた。 ところが、再びダンボール箱に詰込み棚の上に置いてしまったのである。 まだ注文が入ってなかったのだろうか? いつも女の子が時間を掛けてやる仕事を、私が一気にやってしまったので予定が狂ったのかも知れない。 エリックは朝早くに、自宅から直接、遊戯機の修理に出掛けたらしい。 私も一緒に連れて行って欲しかった。


 次の日、エリックに外回りに連れて欲しいと頼んだが、さりげなく断わられた。 どうも社長からそう言われているらしい。 前回の職場体験と同じく、私は、毎日、日報を書かねばならず、作業なしとは書けない。 社長が出社したら何か仕事を与えてくれるだろうと思うのだが、なかなかやって来ない。 今日は全員が外出し、ここには、奥さんと受付けの女性の二人だけとなってしまった。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

78 クラブ施設

[クラブ施設]


 オーストラリアではクラブ組織を創設し、条件が揃うと、その建物内に賭博機械を置いてもよい。 ゴルフ、ラグビー、フットボール、サッカー等のスポーツクラブ、又、文化クラブも同様である。 大きなスペースにポーキー(ポーカーの機械)が、日本でのパチンコ台のようにずらりと並んでいる。 十セントから二ドルまでのコインが使え、当たるとパチンコ玉が出るように、コインがどかっと出てくる。 その近くに椅子とテーブルが、たくさん置かれた広間があって、ビンゴという団体でする数合せゲームをやっている。 レストランやバー設備もあって、スポーツが終った後、そこで休憩し帰宅する。 地元の人口の割にクラブの施設が多く、お互いが大競争となって、立派な建物や設備があっても暇でガラガラ、営業不振で、クローズしてしまう所もある。


 この電子機器の会社は、それらのクラブがお得意さんであった。 子供連れでクラブ会館に来ると、子供を世話する設備とか、ゲームや乗物の遊戯機械が置かれている部屋がある。 その機械のリースと集金、メインテナンスをやっているのである。


 エリックが最初に立寄った先は、古くから州境にあるクラブで、私は度々ここへ来たことがある。 四階に小さな劇場があって、オーストラリア人歌手、アメリカからも有名な歌手がやって来た。 古くは、今は亡きサミーデイビスジュニア、ディオンヌワーウイック、最近ではシャーリーバッシーも来ている。 私は八年前、ナンシーウイルソンのコンサートを見に来た。(1990年)


 正面から入る場合は、免許証等の身分証明書を提示し、署名しなければならない。 私達は裏口の、スタッフ用のドアーから入った。 上を見上げた。 どこかにテレビカメラが設置されているのだろう。 通路を歩きながら、私は三十数年前を思い出した。 大阪のある大劇場で働いていた頃で、いつも裏口から出勤、退社をし、一度も客として玄関から入ったことがなかった。


 彼はコイン勘定機を左脇に抱え、手に書類ケース、右手には用品箱を持った。 腰に吊るされた鍵の束が、歩くとリズムカルに音をたて、狭いコンクリート壁にこだました。 私は重い大きな道具ケースを持って彼の後に続いた。


 遊戯室に入ると、機械一台ずつ開け、別々のプラスチック箱にコインを取り出し、機械の点検をした。 それが終ると、コインの入った容器と勘定機を持ってオフィスに入って行った。 私は道具類の番をしながら、ホールの椅子で、彼を待つことになった。



 [ビジネス事情]


 この二階にスモーガスボード(バイキング料理)レストランがあって、安くて美味しいので有名、私も二、三度来たことがある。 日本料理は見た目にも、きれいで味は良い、 でも量が少ないので、値投が高いと思われている。 オーストラリアでは、味よりも量の多いことが望ましい。 材料費は決して安くない、人件費も高いから儲かっているレストランは少ない。 たいていのスタッフは時給で、暇な時は容赦なく帰らされる。 それで国民給与法では最低時間数が決められ、それ以下だと会社は違法となり罰せられる。


 ここのポーキー設備、規模は小さいが随分古くからあった。 競争相手の少ない頃は大変儲かったようだ。 海に面した裏側が駐車場になっていて、そのスペースが狭くなってきたので、正面の道路を挟んだ向かい側の古い家を、次々と買っては駐車場にしていった。 警察署もあったが、移転して貰うために、広くて高価な土地を無料で提供したと聞いた。


 二十数分して、彼はオフィスから出て来た。 私達は再び車に乗り、十分間ほど南へ走った。 そこは同系列のスポーツクラブであった。 ここにも遊戯機が置かれ、その集金をしたが金額は非常に少なかった。 ここが出来て、そう年数は経っていない。 広い駐車場、大きくて立派な建物、ポーキーが置かれ、大レストランもある。 いろいろなスポーツ施設があって、平坦だが距離の長いゴルフコースも出来ている。 私は一回だけ、このコースでプレイをしたことがあった。 ボールを上から見えない程の深いラフに入れてしまい、大タタキしたことを思い出す。 ゴルフクラブの方は忙しく、いつもブッキングでいっぱいだった。 でも建物内は閑散として、噂に聞くと、かなり赤字が出て、系列クラブの足を引っ張っているとのこと。


この周辺地域に、まだ三箇所のクラブ施設がある。 それぞれポーキーの設備を持っているが、お互い競争で、どこも経営が苦しいと聞いている。


 日本人ゴルフファーの登竜門として有名だった例のゴルフクラブは建物内の設備がすべて営業停止になってしまった。 ここでのビジネスは本当に難しい。 前にも述べた、人口が少ないからである。 年金生活者では、お金にゆとりがないし、ホリデイに来た人々は長期滞在ともなれば、出来るだけ出費を控えるからだ。


 最近のニュースで(1998年)、シド二−に出来たカジノホテルも経営がうまくいってないと伝えていた。 アジア人を当てにしていたのが、各国が不況で、その煽りを真ともに受け、予定が狂ったとのことである。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

77 カジノホテル

[カジノホテル]


 オーストラリアには、大小のカジノがたくさんある。 ホテルで大きな設備を持つ建物は、ほとんどの州都に出来ている。 私の家の近くにも、古くて大規模なカジノホテルがある。 私が来た頃、ここは川の中州で、両側を小さな橋で結ばれたキャラバンパークだった。 建築が始まる前、居住者を対象に、クィーンズランド州政府が株を発行した。 一株が一ドルで、私達夫婦も、小口の株を買った。 基礎が出来、外観が建ち上がると株が上昇し始め、建物が完成した頃には、それが三倍となった。


 やがてオープンとなり、時を同じくして、日本からの観光客が急増し、それが珍しいので、観光のメッカとなっていった。


日本のバブル経済の初め頃、大金を持った旅行客、又、ここでビジネスを始めた人々の遊興の場所となった。 ある日本の不動産業者、かねてから、日本からの移住ブームで、ここで販売した家の売上金までも手を付け、なくしてしまったと聞く。


 日本人だけでない。 あるオーストラリア人、メルボルンでやっていたレストランを売却、この町でビジネスを始めるつもりであった。 ほんの遊びのつもりが本気になってしまった。 主人が帰って来ないので、奥さんが捜しに行くと、カジノの駐車場に、車だけがポツンと残され蒸発していた。 彼はビジネスの資金を全部なくし、借金をする為、はるばるメルボルンまで帰っていたそうだ。 私のレストランヘ来る常連さんの家に泊まっていた人だった。


 私がメンバーだったゴルフクラブ、ある会員は借金までしてカジノに凝り担保物件の不動産をなくしてしまった。 そしてゴルフコースの十六番ティーグラウンドに置き手紙をしたあと、車の中でピストル自殺を図った。


 私の知っている中国系シンガポール人、古くから、この町で日本レストランのシェフをしていた。 その後独立、今度は経営者の一人として大成功していた。 私の家の二軒隣に住んでいたが、突然彼は若くして亡くなった。 人からはガンで亡くなったと聞いていた。 でもつい最近知ったが、彼もカジノが原因の自殺だったそうである。


私が家へ参拝に行ったら、ガレージに台をし、遺体が置かれていた。 日本でのお通夜が、彼の国では、一週間続けられるそうで、その習慣での葬儀だった。 季節は五月、まだ暑い日が続いていた。 その十分な処置をしていたとは思われない。


 


[葬式]


 私はここに住んで、今までに三度、葬式に参列したことがある。 家で死亡すると、先ずドクターを呼び診断書を書いて貰う。 病死、自殺、他殺の死因を検視する為であろう。 その後、すぐに葬儀屋がやって来て死体を持ち帰り、すぐに冷凍してしまう。 したがって葬祭業を営むには、かなり大きな冷凍設備がいることになる。 家族が面会する場合は、そこまで行く、またコフィン(棺桶)を選び、式のやり方を相談する。 墓地には葬儀の為の教会があって、そこへ直接運ばれてくる。 葬儀が済むと、土葬の場合には、すでに穴が掘られている。 深さは約二メートル、その両幅はコフィンが、ぎりぎり入る大きさで、土木で使う溝掘りの機械に特別製のバケットを取り付けている。


 古い映画で、棺の外側に何本かのロープを付けて、穴に下ろしているシーンを観たことがあった。 ここでは、それ専用のフォークリフトのような機械があって、黒いベルトが付いていた。 その機械で穴に下ろすと、親族や知人が、穴の回りに立ち、手に土を持って、形式的に上からかけ、あとは葬儀屋任せとなって解散させられた。 機械のベルトはまだコフィンに付けたままである。 私は、ふと、良からぬ想像をした。 もしかして、値段の高いコフィンだと、安物に取替えられる恐れがある。 そんなこと信じたくないが、一旦埋葬されれば、二度と掘り返されることがないからである。


 火葬の設備はそこにはない。 どこか人里離れた山の方にあると聞いている。 遺体は高温で焼却するので骨まで灰になってしまうそうだ。 最近では、その灰を海に撒くことは禁止されている。 環境汚染となるからである。


 ところで、ガンの重症患者で、医者が手に追えなくなった場合、本人にもそれを告知し


退院をさせられてしまう。 早い話、「家に帰って、死になさい」と言うことである。 そんな人を周囲で、二度見たことがあった。 顔に黄疸が出、何時ものように海を見に来ていた。 姿を見せなくなったら、彼は亡くなっていた。


 隣の彼の場合、ガンでの病死だとばかり思っていたので、参拝の時、奥さんに「何のガンだったのか?」と尋ねた。 すると彼女は、口ごもって、要領を得なかった。 多分、話したくないのであろうと、それ以上は聞かなかった。


 彼がカジノに凝っていたのは知っていた。 カジノでは∨IPとして扱われ有名だったと聞く。 賭け金が、ある金額以上、又は賭け好きな常連さんなら、すぐにVIPになれた。 特別の部屋があって、カジノ払いでレストランから食事が取寄せられ、他にも至れり尽くせりのサービスが受けられると聞く。 まるで王様にでもなったような気分にさせてくれるのである。 そこでは天国、一歩外へ出ると地獄となってしまうのだ。


 彼には子供が三人いて、まだ小さかった。 しばらくして、家族は、家を処分し、どこかへ行ってしまった。 私の周囲でも、これだけ悲劇を見たり聞いたりした。 ギャンブルは、人間の一番の弱点を掴んで離さない。 心を狂わせ、家庭をも破滅させてしまう。 大切なのは、いかに自分自身をコントロール出来るかであろう。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

76 思い出の場所

[思い出の場所]


 この会社は自宅から車で十五分の所、古い産業地帯の中程にあった。 思えば、今から十数年前(1983〜1984年)最初の店の頃、妻と二人で、ここまで度々仕入れに来た。 肉や魚、野菜等の買出し、それに今でも家で使っているソファーは、ここで買った品物だった。 もう家具屋さんはなくなっているが、当時の建物はそのまま、昔の面影を残している。 近くに立派な新産業地帯が出来、ここは昔のような活気がなくなってしまった。 当時の思い出が、つい昨日のように、甦えってきた。


 あの頃は、希望に満ちていた。 どこへ行くにも二人一緒で、見る物、聞く物、すべて目新しく興味があった。 冒険心旺盛、探検家のような気分で、どこへでも出掛けた。 経済大国、ハイテクの日本から来たのだと、誇りを持ち、自信に満ち溢れ、選ばれた人間のような気持ちとなった。 店を持ち、商売が繁盛しだすと、今度は成功者の気分となり将来への理想を描いた。 でもその願望は、いつの頃からか、現実の波に巻かれ消滅していった。


 寂れてゆく、旧産業地帯を見ていると、空しさが心に追ってくる。 思い出の場所に立った。 ふと、二人がここへ来て仕入れをしたことが、夢だったような気がした。



[最後の職場体験授業] 


この電子機器会社には、社長夫妻以下六人が働いていた。 私を面接した奥さんは経理を担当、毎日出社している。 受付けには、同年齢の女性が座っていて、前にコンピューターと電話が置かれ、得意先からの注文に応対していた。


 ワークショップ(作業場)内に、コンピューター関係に従事する若い男性が二人いた。プリント基盤に部品をハンダ付けしている若い女性もいる。 二人共非常に太っていた。社長も又、相撲取りのような大男で、体重が150キロはありそうだ。 ティムと云って四十六才、年よりもずっと老けて見える。 もう一人、中年の男性が働いていた。 私よりもっと頭が剥げている、四十七歳でエリックと云った。


 今日、ワークショップでの作業と思い、野球帽を被っていたら、ティム社長から注意をされた。 「今日、貴方はエリックと得意先回りをするから、帽子は脱ぐように」と、私は、その理由が分らなかったので不思議な顔をしていると、これから行く場所は、カジノで、作業での入館者は、すべてテレビカメラで撮られ、館内は脱帽となっているとのことであった。


第一日目から、早速、外回りとは思わなかった。 一体どんな所へ行くのか楽しみと、エリックの車の助手席に飛び乗った。


 彼は合気道をやっていた。 得意になって、日本人の名前や、用語を混えながら話をし、車を運転した。 私は合気道とは、どんな武道なのか知らなかった。 日本の武道は種類が多くて分りにくい。 以前、棒を持った人の写真を見たから、棒術か柔術の一派だと思っていた。 日本人でありながら、自国の武道を外国人から説明して貰うのも変だが、彼から話を聞いても、余計に分らなかった。 彼は「合気道は防御の技だ」と言った。 「最大の防御は攻撃ではないのか?」と質問したら、笑っていた。


 レストランをしていた頃、空手をしているオーストラリア人が度々やって来た。 彼は、日本人の師範や友人、その関係者の名前を上げ、私が日本人だから、当然知っているかのような口ぶりで話し掛けて来た。 そんな場合、興味がないから知らないとは云えなくなってしまう。 それで調子を合せていると、もっと深く突っ込んだ話をし、私が知らないことが分ると、彼は拍子抜けしたような顔をして口をつぐんでしまった。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

75 ボランティアワーク

ケーブルのハンダ付けボランティアを買って出た。 前々から、修理の必要な断線ケーブルがたくさんあり、気になっていた。 ジムは管財係りのボブに話をし、喜んで仕事をさせてくれた。


 私は教室の隅で山程あるケーブルと端子のハンダ付けをしていた。 再テストを受けているのは、四人だった。 一つが済むと、ジムの机へ行き早速採点される。 それがパスになると、次の用紙を渡された。 時々ジムは大声を出した。 生徒を叱責しているようだ。 この日の再テストは二つだけ、次は何時か分からない。


 この三週間前より、旧電子科クラスのマルコとイアンが、ハンダ付けの実習中に二、三回やって来た。 何の用件か知らない。 二人共、テストはすべてパスしたと言った。 しかし、どうも様子が変だ。 尋ねてみると、二人は授業時間不足で卒業が出来ず、補習授業を受けていたのだった。 世の中、そう甘くない。 イアンは欠席が多かったし、マルコは確か、電子科コースを受講したのは、暇潰しだと言った。 彼は、娘を学校まで毎日送迎し、遅刻と早退を繰返していた。 将来、カーステレオの店を出す為の基礎学習と思っていたが、やはり彼は、サティフィケイトが欲しかったのである。 ところで、この証書はビジネスを始めるには必要ない。


 ジム教官は、彼等が教室を出て行くとすぐ、同国人のエディに向かって「貴方の国の人達はトラブルを起こすから困る」と言った。 その時の、彼の苦々しい顔が思い出される。


 電気科の課目は十五、電子科は十六、十三課目が同じだった。 一課目が終わると数週間後に、その成果表が送られてくる。 そして全課目がパスすると、コ−スのサティフィケイトが発行され郵送されて来た。


前にも述べたが、電気工事士のライセンスを取るにはアプレンティスシップが必要で、この契約書がないと授業が受けられない仕組みとなっている。 このコースは、契約雇用主を見付ける前の段階でただ学歴として履歴書に記載が出来るだけである。


電子機器でもそれらを修理するには、ディストリクトライセンスが必要で、これは範囲が狭く電気器具には適用されない。 これも前に述べたとおりである。


 この国では、何をするにもライセンスが必要である。 「それは、ライセンス保持者を保護しているのだ」と言う人もいるが、ただそれだけではなさそうだ。


 趣味で電気器具や電子機器を分解、組立、まして修理などは、もっての他ですべて違法となる。 専門学校でとか、免許を持った者が一緒でないと一切触れてはならないのだ。 電圧240ボルトの危険性は理解出来るが、それでは遅すぎる。 その前のトレーニングはスポーツだけではないのだ。 この国で、ハイテク産業が発展していかないのは、そんな理由、法律の束縛が余りにも強すぎる為だと思う。


 私はあと、三週間の職場体験授業を済まさねばならない。 研修生が、一年間に無償で勤務出来るのは、法律で六週間と決められている。 技術習得の為と、それを希望しても違法となる。 又、ボランティアをする場合にも、別に法律が制定されている。


 レックスは勤務先、ペリーは元の勤め先ですることになった。 他の生徒は、再テストの事があるので分らない。 私は再び、担当の教官に依頼し、小さな電子機器の会社を招介して貰った。


 前と同じように電話をして、アポイントメントを取り、次の日、傷害保険の書類を持参して会社を訪れた。 まだ顔の整形跡は、油が飛散って、火傷をしたような痕跡となっていた。 私はそれが少しでも隠れるようにと大きなサングラスを掛けた。


 私と同じ年頃の女性と面接をし、書類にサインを貰った。 顔のことを言うと、「この国では、スキンキャンサーが多いからね」と、気にしていなかった。 後日、この女性は社長の奥さんで、私よりもずっと若いことがわかった。


 この授業が済めば、電気科と電子科クラス、二つの課程が終了する。 以前のようなトラブルは絶対に起こさないよう心掛けねばならない。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

74 スキンキャンサー

[スキンキャンサー]


 私は、電子科コース受講中の始め頃、医者へ行った。 スキンキャンサー(皮膚ガン)らしき物が顔に出てきたからである。 顔に老人性斑点が所々に出始め、これは年と共に増えているのだと諦めていた。 その中に皮膚の状態の変なのを発見した。 医者に見せると「はっきり、キャンサーとは断言出来ないが、取除いてあげよう」と言って、何かを取りに部屋から出て行った。 「さては麻酔をし、メスで皮を削り取るのかな、痛いだろうな」と思った。 戻ってきたドクターの手にスプレー缶が持たれていた。 その先端に細いノズルが付いている。 それを皮膚の斑点目掛けて噴射した。 冷たいガスが出て、一ヶ所が痛くなるまで吹付け、次の斑点へと移動した。 それをもう一度、元に戻して繰返されたからたまらない。 痛い、痛い、顔中痛む、涙がポロポロこぼれた。 それでも、彼は続行した。 凍傷による火傷を無理やりさせたのだった。


 オーストラリアは世界一スキンキャンサーが多いと聞く。 南極上空のオゾン層が大陸二倍の大きさで穴が開き、そこから有害な紫外線が入って、影響を与えているのだと言う。 季節によってその大きさと形が変わり、毎年12月から1月にかけてオーストラリア大陸の南部上空にさしかかるそうである。


 直射日光が皮膚に当たると、痛く感じる。 これは人間の皮膚が自然に危険を察知し、それを知らせているのだ。


 スキンキャンサーは放って置くと、どんどん皮膚の奥深く入って行き、メスでえぐり取らねばならなくなる。そしてもっと進むと臓器に転移、増殖して死に至る。有色人種は、これに掛かり難いと言われているが、やはりその人の体質によるのではなかろうか。


 オーストラリア政府も、その対策には熱心に取組んでいる。 ビーチなどに注意を呼掛ける立てカンバン、又、政府から全医師に、患者には治療を無料にするよう通達されている。 私を治療した医院でも、お金は一切取らなかった。


 治療を受けた夜は、顔全体が痛くて、寝付かれなかった。 数日後、顔中が水脹れとなり、ボクシングで殴られた選手のように腫れ上がった。 


クラスメイツが心配して尋ねた。 私は「ハンサムになる整形手術だ」と言ったら笑っていた。 担当医はこうなる事が解りながら私には何も言わなかった。 あらためて西洋医学の荒っぽさを知った。


 一ヶ月後、その部分の皮がむけ、下から皮膚が現われた。 そして、もう一度皮がむけ、新しい皮膚となった。 数ヶ月後、今まで諦めていた、老人性の斑点がすっかり消えてしまった。 まるで魔法に掛かったような気がした。 人は、これで少し若返ったと見てくれるだろうか? 私は小学生の頃から、実際よりずっと老けて見られた。 でも薄くなった頭髪だけは、なすすべがない。


 


[最終の授業]


 ジム教官のもう一つの課目「ハンダ付け実習は、コースの始めから終わりまで18週間あった。 以前の溶接実習のように、出来た品物を見せて、得点を貰うのだが、堅物のジム教官は、何時も厳しくチェックをし、やり直しをさせた。


 筆記テストの代わりに宿題形式で問題集が与えられた。 ジム教官著作のハンダ付けの本を読むと、その中に正解が書かれてある。 分らない箇所があれば、ジム教官以外なら誰に聞いても良いとの条件が付き、提出期限が決められた。 私は旧クラスメイツから、すでに資料を得ていたからさほど問題はなかった。


 このコースも最終に近付いた。 最後まで残った研修生は七名であった。 フィリピン人のエディは、終わり近くになって来なくなってしまった。 何時も、ふざけ合っていたルーカスは、かなり再テストを受けねばならないようだ。


 教官ジムのハンダ付け実習の最終日は再テストの日となった。 彼は、テストを受けない生徒は、教室から出て行って欲しいようだ。 再テストの模様を見せたくないのであろう。 昼には、このコースでのランチョンパーティが開催される。 それまで私は、どこかで時間を潰さねばならない。 図書館はもう飽きてしまった。 


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

73 生徒の修理品

[生徒の修理品]


 新しいクラスメイツとはまだ日も浅く、年齢差もあることから、なかなか馴染めない。休憩時間は何時も一人で居ることが多く、図書館がその場所となった。


 オシロスコープを使って、電子回路を測定する実習は、ロンが教官だった。 ある時、クラスメイツの一人が故障したギターアンプを持ってきた。 自分では修理が出来ず、業者に出すと高く付く、それでロンに助けを求めたのである。 旧クラスでも、そんな事があって、教官は時間を取られるから嫌がっていた。 ある程度日数が発ち、生徒が教官と親しくなる頃に持ってくるから無理に断われなくなってしまうのである。


 ロンがこれに、はまり込んでしまった。 最初、彼は適当に済ませるつもりだったが、とうとう計器類を使い出だして熱中し始めたのである。 私も夢中になると、食事をするのも面倒となり、彼の気持ちが良く分る。 ロンは研修生が実習での質問に行っても、うわの空で授業の終了時間が来ても、まだ続けていた。 それを頼んだ生徒が、彼の側へやって来て、「まだ出来ないの?」と、言葉を掛けたが、ロンは無視をした。


 ジム教官が入って来た。 一生懸命のロンの姿を見るや、アンプ持ち主の生徒に向かって、「おまえ、又、持ってきたのか」と嫌味を言った。 どうも、これが初めてでないらしい。 真剣な表情、テコでも動きそうにないロンの姿を見るや、ジムも手に追えないと思ったのか、「先に帰るから」と言い残し教室から出て行った。 その生徒が何か尋ねている。 でもロンは相変わらず無言だった。 いつの間にか、他の生徒もいなくなってしまった。


 学校では、教官が講義中であっても時間が来ると、生徒は、何も言わず立ち上がり、勝手に教室から去って行く。 私もそのようにして外へ出た。 アンプはその日に修理が出来たかどうかは知らない。 人情味溢れたロンの態度に、一層の親しみを憶えた。


 それから数週間後、インド人のペリーが、古い真空管式の壊れたアンプを持ってきた。今度は、ジム教官に依頼した。 私は、ジムがその場で断わるとばかり思った。 ところが、「暫く、預かる」と言って、受取ってしまったのである。 後日、このコースが終了する間際に、「修理不能だ」と言って、彼に返す場面を見た。 私は「成る程」と、うなずいた。


「電源装置」の授業が始まった。 旧クラスメイツ全員が欠点を取った課目である。 今回はジムが理論と実技を担当した。 前のクラスでは八週間を掛けたが、今回は四週間で終了する。 私は週に四日、半日だけの授業でよい。 他の生徒は、私の終えた課目を受講している、一日中なので、かなりハードだ。 ロンの時は総合テストで一回きり、ジムは、今まで通り、各章ごとにテストをした。 一回目はダイオードと半導体で、私は欠点ぎりぎり、あと一つ間違えば再テストだった。 択一式だが物理が中心の微妙な質問内容で、理解不十分が原因だった。 レックスを始め三人が満点を取ったから、難しいと感じたのは私一人である。 続いて整流回路では、一つの間違い、フィルター回路では、二つ間違った。 最後のテスト、レギュレイター回路で一つ間違う、でもこの出題内容に欠陥があって、キャンセルとなり、この課目で初めて満点を取った。


 これで当局からの重要なテストはすべて終了した。 すべてパスしたのだ。 ほっとすると同時に、やり遂げた達成感、満足感で一杯となった。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報



無料ホームページ アフィリエイト レンタルサーバー FC2ブログ