ちょっとチャレンジ!
豪州ベンチャー起業ブログ


プロフィール

Author:kenny18
FC2ブログへようこそ!



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



Powered By FC2ブログ

Powered By FC2ブログ
ブログやるならFC2ブログ



42 テストの重圧

[テストの重圧]


 私は電気が得意だから良い。 でも他のクラスメイツは、転職の為に仕方なく受講している、今のところ、数学や電気理論は中学で習った基礎知識程度であるが、もし電気関係が好きでなかったら、随分勉強が苦痛となるであろう。


 次のテストでは不合格者が数人出た。 その中にヘアードレッサーのマークがいた。 彼は、いつも口癖のように、「このコースは受講するだけで全員合格する」と、言っていた。 もしそれが本当なら、「外国人で、しかも英語のハンディがある私にとって、有難いな」と思った。


 彼は以前、少しの期間だったが、シドニーのTAFEカレッジで、ヘアードレッサーの講師をしたと言う。 そこの校風がそうだったのかも知れないが、テスト前でも余り勉強をしていない様子だった。


 テストの点数は、たいてい一解答が一点で、計三十問題だと二十六点で合格、計十一問題だと、九解答で合格の時もあり、百点満点に直すと、八十点以上となる。


 一つの間違いが合格、不合格の分岐となり要注意である。 英語のハンディから私は、答案用紙をいつも三回見直した。 他の生徒は早く済まし、サッと教室から出て行く、私は何時も遅くなり、最終となったが、どの教官もそれを待っていてくれた。


 テストは不合格になったら再テストが受けられる。 再テストが不合格になった場合、もう一度、再テストが受けられ、それでも駄目なら、もう一度だけ受けられる。 これで大抵の生徒はパスをする。 努力して勉強を続けるか、又は諦めて学校を去るかの選択を見ているようである。


 教官はテストの採点をしてエンマ帳に記入する。 それから答案用紙を生徒に、一時的に返還され、解答合せをするのである。 珍しいことは、毎回、全生徒の前で、個々の点数を読み上げるのだ。 それで他の生徒にも、はっきりと合格、不合格が分ってしまう。


 パスをし、声を出して喜ぶ人、またガッカリしている人、と表情は様々である。 でも欠点と採っても、そうショックではないらしく、ケロッとしている。


 ダイアン担当のクラスでもテストがあった。 私は、てっきり満点を取ったと喜んでいた。 ところが、どういう訳か、このときに限って回答合せがない。 彼女に確かめると、三つも間違っていたと言う。 四つで不合格、非常に危なかった。


彼女は「日本人は英語力不足があるから」と言った。 「確かに、それはある。でも今回のテストは、そう高度な英語力を必要としなかった」と私は言い返した。 彼女の口ぶりから、私以外に日本人を担当した経験がありそうだった。


トムの成績が良くない。 ダイアンは彼の側に座り、付き切りで教えている。 しかし、どうもうまく理解出来ないようであった。


 またビルは相変わらず、彼女と口喧嘩を繰返していた。 「僕は今までのテストはすべて合格している」と食って掛かった。 そう言われると、彼女は何も言えず、黙ってしまった。


 次のテストでは優秀なマーカスが欠点を取った。 彼は非常にショッキングな顔をしていた。 ビルも今回初めて欠点を取り、他にも数名いた。 運良く私はギリギリでパスをした。 試験問題が難解となりパスするのが難しくなってきた。


トムは、もうクラスヘ顔を見せなくなってしまった。 ダイアン教官の努力も実らなかったようだ。


 第十四週目に入った。 実技は、「工作機械」である。 旋盤とフライス盤は工業高校時代に使用したことがあった。 あれから、三十五年になるが、それらの機械は、ほとんどモデルチェンジはされていない。 この分野では、その必要がないのかも知れぬ。


 前と同じ教官が現われた。 プログラムに書かれた名と違っている。 研修生はお互い顔を見合わせながら、嫌な表情をした。 彼は上部からの命令で、今回も担当すると告げた。


 彼自身、研修生から嫌われていることを知っている。 私は彼の教育方針は間違っていないと思っている。 学力や技能の向上だけでなく、厳しさや規律も、教育の一環であって、人間は張詰めた緊張感がないと、脳細胞に旨くインプットしていかない。 テストも同じで、もしそれがなかったら、おそらく勉強はしないだろう。 工場内では、特に気の緩みが事故につながる。 若い人達は惰性に流され、気ままを言っているのである。


 電気科だけの実習課目で、「コード、ケーブルの応用」は、ダイアンが担当した。 彼女は、この学校へ来る前は、電気業界の現場で仕事をしていた。 女性には珍しく配線工事が出来、作業中には何度も感電の経験をしたそうだ。


 この実習では一人ずつ、ベニヤ板の上に、ケーブルと器具を取付け配線していく、私の得意とする作業である。 他の生徒は初めてで、やり方が分らず、もたもたしていた。 そして、私の側へやって来ては、そっくりコピーを始めた。


 ビルは仕事が見付かったとの理由で、先週学校を辞めた。 優秀だったマーカスも、クラスに来なくなってしまった。 テストの欠点が、かなりショックだったらしい。 真面目な性格なので、余計に落込んでしまったようだ。 彼には、授業を続けるよう説得してやりたかったが、その方法が分らなかった。


 これで電気の生徒は私を含め六人となってしまった。 それに、あと二人が出欠を繰返している。 彼等も、もうすぐ来なくなってしまうだろう。


 この課目で、二度テストがあった。 配電工事に関してのマルチチョイスの問題で、私はなんとか欠点を逃れた。 キイウイのジェミニーだけが、満点を取った。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

41 実習所の規律

[実習工場の規律]


「手仕上げと動力工具」の実技はプログラムに書かれていた教官と違っていた。 前の教官はオートバイのレーサーで、元オーストラリアのチャンピオンにもなったそうだ。 大きな競技大会が近付いたので、その準備の為に学校を辞めてしまったと言う。


 新教官は三十二才の男性で、頭とマユに毛がなくツルツル、ちょうどタコ入道みたいで、何となく不気味だった。 後になって分ったが、それは彼自身のファッションではなく自然な姿だったのである。


彼は元オーストラリア軍の陸上部隊にいた。 その後、シドニ−の技術系の学校で教官をし、つい最近、奥さんと共にゴールドコーストヘ引越しをして来た。


 軍隊時代の規律を、そのままクラスに適用させようと一生懸命だった。 時間厳守、授業態度、言葉使い等である。 ところが、私が当然だと思う事でも、若い人達には、それらが全く受け入れられないのだった。


 時は初夏、段々暑くなりかけていた。 分厚いオーバーロールに重たい安全靴、誰も着たくない、でも規則で実習場では必ず着用が義務づけられている。 本人の防災の為なのである。 もし着てなくて事故が発生すれば、担当教官の重大責任となる。 厳しくて当然なのに、その規律を守ろうとしないのだから、どうしようもない。


 彼もビルには、一目を置いていた。 ある午後の実習時間、彼はビルを、すごい剣幕で怒り出した。 「お前に言いたいことがある。 ちょっと、こっちへ来い」と言って、戸外へ連出した。 ビルはオーバーロールを着ていたから、それが理由ではない。 彼が何をしたのか、私にも全く分らなかった。 窓越しに見える二人、遠くて声は聞こえない、でも今にも殴リ合いになりそうだった。


 マーカスは十七才である。 礼儀正しく成績も良かった。 ところが、何故か彼から、度々注意をされていた。 その愚痴を他のクラスメイツに話しているのを、私は通りすがりに聞いたことがあった。


 私は誰よりも、年上だから、何か力になりたかった。 彼等の仲介をと考えたが、でも悲しいかな、適切な英語が出て来ない、それに、ここは外国だ、環境と習慣の違い、世代のギャップが余りにも大きすぎる。 妙に声を掛けて、違った受けとめ方をされると、逆効果にもなりかねない。 残念ながら、静観をすることにした。


 


[堅物教官の授業]


「直流の基礎」の課目の教官はジム、私より三つ年上である。 この学校へ来る前は、オーストラリア空軍で電子工学を教えていた。 両親はドイツ出身で、私の想像する、堅物で優秀なドイツ民族のイメージをそのまま表現していた。


 この学校で使う電気科、電子科のテキストの一部と問題集は彼が作ったもので、彼の著者名が印刷されていた。 題名「信頼性あるハンダ付け」の本は、理論物理学的にハンダ付けの原理と化学現象を詳しく解説していて、私はハンダ付けに関する専門書を見たのは、これが初めてだった。


 彼は段階的に念を押しながら教え、生徒が理解出来ないと次には進まなかった。 行儀の良くない生徒には非常に厳しく「君達、勉強する意思がなければ、外へ出なさい、真面目な人の邪魔になるから。 そして単位はないものと思いなさい」 


そう言われると、態度の悪い生徒でも、おとなしくなった。 彼には生徒全員が一目を置いていた。


 例の当局からのテスト回数が多くなってきた。 ジムはふと言った。 「君達がテストを嫌がる気持ちは良く分る。でも仕方がないのだ」と、要するに、彼が好んでテストをしているのでなく、政府からの指令であると言う。


「直流の基礎」のテキストは六章あって、テストは一章ごとにされ、この課目は四週間で習い終わる為、一週間に二度のこともあった。 「鉄は熱い内に打て」で、私にとって習った後すぐにテストがあり、忘れ易いのが多少なりと防げ好都合だった。


 教官ジムは、たくさんワークシー卜(問題集)をくれた。 これさえ完全にやれば合格点を取れることが分り、私は繰返し、繰返し勉強した。 英語力不足と年齢によるハンディキャップがあったから尚更である。 テスト問題は形を変えて、ほとんどこのワークシートから出た。しかも難問題は出ず、私は運良く合格点を取り続けた。


ジム教官は「外国人の貴方が、何故良い点数を取れるのか、不思議だ。 もし私が貴方の国へ行き、同じ立場となったら、そうはいかないだろう。 でも次のテストではどうなるかな」? そう言われると、「もっとがんばろう」とのファイトが沸く、私の精神状態は完全に中学生であった。


習いごと、学び事は純真な気持ち、幼児の心にならないと、頭に入って行かない、プライドがあり、高慢な態度では、習得出来ないと聞いたことがある。 でも年を取った者が、童心になり過ぎるのも気持ちが悪く、ほどほどにすべきだ。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

40 問題の研修生

[問題の研修生]


 生徒の欠席が目立ってきた。 三、四日休み、突然教室に戻って来ると、クラスメイツ達は珍しいからと、手を叩いて迎える。 本人達も、それを期待しているようでもある。


 特にトラブルの多い少年が二人いた。 トムとビルである。 トムは十七才で、元溶接の仕事をしていた。 先週までの溶接実習ではレイン教官のアシスタントをしていた。 材料の調達とか工具の準備等の手伝いである。 どうもそれが嫌だったのか、遅刻や欠席を繰返していた。


 彼と同じロッカーを使っていた生徒が二人いた。 トムがそのキーを持っていたので、彼が遅刻した時、着替えが出来ず右往左往、実習場で教官から何度も注意をされていた。ロッカーの鍵は自前だが、どこにでもある普通の∪型錠で、買っても、そう高くはない。


 私は彼等の隣を使っていた。 空ロッカーはいっぱいあるにも拘らず、それを繰返していた。 私には彼等の行動がまったく理解出来なかった。


 ほっそりして背の高いトム、気は優しいが、いつもオド、オドして自信のない態度である。 空気のいっぱい入ったゴムふうせんが、今にも弾けそうな、なにかのキッカケで重大なことを仕出かしそうな雰囲気だった。 女性教官ダイアンは特別彼には親身となっていた。


 前回のテストは非常に易しいかったのに、彼はパスをしなかったようだ。 彼の側に座って長い間、教えていた。


ビルはトムと対象的である。 十六才の彼、体格は小柄だが、がっしりしていて、マユ毛が濃く目はパッチリ、りりしい顔をしたハンサム少年である。


 テレビ映画、Xファイルの大ファンで、何となくスカーリー役の女優、ギリアン、アンダーソンに似ている。 私は彼をスカーリーと呼んだ。 すると、彼は、力を込めて、モルダー(相手男優の役名)だと訂正した。


休憩時間、若いクラスメイツ達は円陣を作り、日本でのお手玉(袋に小石を入れた)に良く似た物を持って来て、けまりのように足首で落とさないよう回し打ちをして遊んでいる。 これが最近流行しているらしい。 ビルはしきりに私をその仲間へ誘った。 彼は冷やかしでなく真面目に言うので、ついつい私もその気になった。 でもハッと我に返り断った。


彼の授業態度が良くない、陽気が度を越している。 物音を立てる、キョロ、キョロする、横を向いては、他の生徒と大声で話をする。 椅子に足を投出し寝そべり、コンピューター台の上に靴のまま両足を置いたりする。 信じられない程行儀が悪いのだ。


 私は白板の字が良く見えるようにと、何時も一番前の席に座る。 それで後ろで何が起きても分らない。 時々物音がするからと、振向く程度である。


 日本の学校でも同じだが、態度の良くない生徒は大抵後ろの席へ座る。 目立たない場所だと思っているが、実は教壇からは視界の良い地点である。 それで彼女の方も気が散り、邪魔になって教えてられないのだ。 ビルには、しょっちゅう注意をしていた。


 彼女が大声で、私の目の前で怒り出す。 私は、彼女の顔を見ないように下を向く、すると彼女から、私が叱られているような気になってきた。


 彼女は、ある程度、彼の態度には諦めていたのか、少し位では何も言わなくなった。 そして時々、彼の席へ行って冗談をも交わしていたのだ。 「なんだ、彼女はそんなに悪く思っていないのだ」 


そんな矢先、ある日の午前、突然、ダイアンのカナキリ声が教室に響き渡った。 ビルをにらみつけ、怒りだしたのだ。 彼が何をしたのか、定かでない。


 彼女は今までにない興奮状態で、ビルの席へと向かった。 そして今にも、彼に拳を下ろしそうとなった。 クラス内はシーンと静まり返り、緊張がみなぎった。 一方彼はソッポを向き、ニタニタ笑っている。 そんな彼の態度を見て、彼女は一段と激怒した。 声を震わせて、「両親に報告する」と言っている。 ビルも言葉を返した「もうここを辞め、クーランガッタ校へ転校する」と。 


そんなことを言ったのに、彼は知らぬ顔をして、次の日もやって来た。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

39 溶接の実技

[溶接教室]


 溶接の実習は非常に危険だ。 濃い色ガラス付きヘルメットを被り、分厚い皮の手袋に重い皮製の前掛け、予防は万全だが、それでも危ない。 鋭い閃光、飛散る火花、灼熱と騒音、真赤になった鉄板が靴の上に落ちた。 ジューと音がし煙が出て異臭が辺りに立ち込めた。 作業靴には内側に鉄板が入っているので、つま先に当たっても怪我はない。 でも一瞬ヒャーとする。


 ガス溶接、電気溶接、ガス電気溶接、それにガス溶断他、合計十種類のトレーニングだった。 できた品物は必ずチェックを受けねばならなかった。 検査が通らないと、もう一度やり直しとなる。 それを何度も繰返し、やっとパスしたこともあった。


 私は不器用な方ではない、だが危険を感じ、つい臆病になってしまうのだ。 一人ずつエンマ帳に書込まれ、やらずには済ませられない。 チェックが済んだのに、記帳もれがあったりして、再びやり直しをさせられたこともあった。 かなり徹底した指導だったので研修生のテクニックは瞬く間に向上した。


 実習中のある日、私は個室になった溶接台にいた。 すると教官が一人の日本人を連れて来た。私より少し若い男性で、この学校へは観光業務の研修のため、日本から学生を数人連れて来たと言う。 私を見て「この学校の先生ですか」? と質問した。 「生徒です」と言うと、妙な顔をされていた。 そうだ、自分の年をすっかり忘れていた。 私は生徒として通用しない年齢だったのだ。


 溶接実習の教官は二人いた。 レインとスティワートである。 レインは四十三才、背が高く太っている。 ソフトな話しぶりでおっとり型、芸術家を自称している。 金属溶接の作品を今製作中で、近々その展示会があるからと、案内書を手渡された。


 スティワートは六十才に近い、筋がね入りの体格、口髭をたくわえ、ドスの利いた声、馬に乗せたら、マカロニウェスタンで悪漢のボスという感じがする。 ところが見掛けとは違って非常に優しい教官で、物を大事に扱った。 「学校にある設備類はすべて国民の税金だ」と云って、率先して道具類を大切にし、使用済み材料を再び教材に使った。


 


[研修生の欠席]


 この頃から欠席する生徒が目立ち始めた。 全然クラスに顔を見せなくなったのが三人いる。 その中に若いオーストリアからの生徒がいた。 学校の駐車場でたびたび彼を見掛けた。 お父さんらしき人が、彼をポルシエ944でいつも送り迎えしていた。 珍しかったので、私は記憶していた。 彼の父親は息子を電気技術者にならせようと努力したが、成功しなかったようだ。


 二日に一度来る生徒、または何日か休んで、突然出席する生徒、タイプは様々である。


「電気の基礎」理論でテストがあった。 私達の電気科クラスの担任はダイアンと言う女性教官である。 彼女は四十才過ぎのガッシリした体格で、何時も頭のテッペンから発するような甲高い声を出した。 


彼女は手に、束になったテスト用紙を持っていた。 そして厳かに、念を押すようにして、「これは非常に重要なテストである」と言った。


 彼女の態度や言葉の調子から、今までのような軽いテストではないと言う。 クラス内に一瞬緊張がみなぎった。


 配られたテスト用紙の最初のページには書類を思わせる、条件、注意書きが印刷されていた。 二ページ目からは問題用紙で、もう一枚紙が配られ、これが解答用紙であった。 最初のページにクラス名と日付、名前を書きサインをする。 その下に、枠で囲まれた欄があって、何問題中、何解答でパスとあり、教官の署名場所があった。 なるほど、これはどこから見ても、当局発行の重要書類の感じだ。 私は、恐る、恐る、丁寧にページをめくった。


 出題内容はオームの法則の簡単な計算、それに回路図を説明した中から正解を選ぶ、 マルチチョイス、緊張の割に易しすぎ、少し拍子抜けがした。 このテストではほとんどの生徒が満点をとった。


 危険がいっぱいだった溶接実習が終わり、第十週目に入った。 実技は「手仕上げと動力工具の使い方」である。 理論は「直流の基礎」で、これにコンピューターの操作が加わった。 部品がいっぱい付いた回路盤を一人ずつ与えられ、これに電源を接続し、コンピューターの指令で電圧、電流、抵抗値の測定をする。 次の章へ移る前にコンピューターからテストをされる。 それが終らないと次に進めないようになっていた。 私は英文理解に時間が掛かり手間取った。 しかもコンピューターを使うのが初めてであった。


 若い人達は自宅にコンピューターを持っているのだろう、マウスを旨く操作し、カタ、カタ、カタと軽快な音、リズムカルにキーボードを叩いている。


 私はコンピューターには余り興味がない。 キーボードが嫌だし、操作のややこしさ、長時間モニターの前に座らねばならないから目にも悪いし、運動不足にもなる。 コンピューター関係の仕事をするならば別だが、今のところ、その考えはない。


 一般家庭へのコンピューター普及が急ピッチで進み、値投も安くなり、一人一台の時代がやって来る。 学校の授業で、わざわざコンピーターを使う程の内容でもないのに、使わせている。 それは将来の事を考え、機械に慣れさせる為であろう。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

38 実習始まる

クラスメイツ全員時間が超過し、一日で終る予定が二日間となった。 いろんな仕事をしてきた研修生達が真に迫った体験談を発表する、このスキルは見事、大成功を修めた。


 担当教官ベティも非常に満足していた。


 


[災害防止と対処]


「職場での健康と安全」のニュージーランド出身の教官の名はスコットと言う。 この課目は総三十時間で、どのコースにも、最初に付いている。 彼は他の研修校でも教え、掛持ちをしているので非常に忙しい。


 どんな職場でも災害は発生する。 それを防止するには、雇用主も従業員も一丸となって対策を練る。 その方法とか、災害発生時の対処の仕方を学ぶのである。


 毎回スライドを写し、文章を読みながら解説した。 彼自身の手書きスライドで、所々分らないスペルがある。 他の生徒が筆記しているので、私もやってみたが、書くのに熱中すると、彼の話が聞取れない。途中でギブアップしてしまった。


 実習では、人工呼吸による救助テクニック、時間を掛けて徹底的に教え込まれた。


 この課目の終わりにテストがあった。 一人ずつ教室に呼出され、ダミー人形を使っての実技テストで、彼の指示通りの動作をし、質問に答え、それが得点となった。


 戸外では研修生全員、顔がこわばり、ピリピリしながら、その順番を待った。


 ペーパーテストは、マルチチョイスだった。 やま掛けをし、問題集ばかりをやった。 でもそこからは一切出なかった。 テストは返して貰えず、全く自信はなかった。


 その数週間後、クィーンズランド州の救急センターから、ファーストアイド(応急手当)のサティフィケイト(終了証書)が送られてきた。 かなり下駄を履かして貰ったと思われるが、パスしていたのだ。 オーストラリアで初めてのサティフィケイトを貰って非常に嬉しかった。


 マークに聞くと、まだ送られて来ないと言って、心配をしていた。


 この授業の終了前、スコット教官は、私達のクラス以外、すでに女性徒のクラスを受持っていた。 休憩時間、戸外のベンチで、彼が数人の女性徒と楽しく話し合っていた。


 それを三階の教室の窓から、マークが突然大声でヤジを飛ばしたのである。 スコット教官はこっちを見上げた。 マークの側にいた私はサッと彼から離れ、璧に隠れた。


「危ない、危ない、マークは時々バカなことをする。 そんなことをされて喜ぶ人間はいないのだ」 もしかしたら、それが原因なのかも知れないと思った。


 後日マークは宿題を忘れていたことが判明し、それを提出して、一件落着となった。



[実技授業]


 やがて六週目に入り、「金属溶接」の実習が始まった。 待ちに待った、実技の時間がやってきたのである。 理論の授業は「電気の基礎」、以前はこれを学ぶ為の準備で、いよいよ専門的な学習に入り、私の得意な分野となった。


 実技の溶接の授業は電気科と電子科のクラスが別々になってしまった。 使用道具類の数不足、または研修生の監督を容易にする為であろう。 私が、今まで仲間だった年配連中は、すべて電子科のクラスで、彼等とはしばらくのお別れとなった。


 電気科、最年長の私の次が、二十才の卜ニ−で、あとは十六才から十八才まで十二名がいる。 彼等とは余りにも、世代が違い過ぎ、私は、南海の孤島に取り残された感じがした。 電子クラスと一緒に勉強していた時は、どうして年配組が多く、電気クラスでは若い人達ばかりなのかと、気にも止めなかった。 ところが彼等がいなくなって初めて、何故そうなのかと真剣に考え出したのである。 そしてやっと、その理由が分った。


 電気の仕事は重労働で、資格を取るには、四年間のアプレンティスシップが必要、しかも低賃金、若い人でないとやっていけないシステムになっている。 これは前に述べた通りである。


 最初、私は、この制度のことは知らなかった。 コースを受講し、テストに合格した後、少し経験を積めば、ライセンスをくれるものとばかり思っていた。 電気工事とか器具の修理は一人でも出来る、ライセンスが手に入ったら自営するつもりだったのだ。 入学前、それに付いて聞く人もいなかったし、調べもしなかった。 


「しまった、私も電子科を選考すべきだった」と後悔したが遅い、今からの手続き変更は不可能である。


 でも実習時間は非常に楽しかった。 工業高校の授業以来、三十五年ぶりだった。 分厚いオーバーロール(ツナギ)と防災靴、これらは前に述べた学校からの支給品で、この時から着用を始めた。 まだ冬の終わり頃で、それを着ても、そう暑くはなかった。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

37 TAFEのプレゼンテイション

第四章


TAFEカレッジの授業風景


[プレゼンテイション]


 このストーリーを抜粋し、二十分間の原稿にまとめた。 そして何事が起きようと、前向きの姿勢、ポジィティブ(陽性)思考で望むことが必要であると締括った。


 これがうけた。クラスメイツから大拍手が沸き起こった。 特にベティ教官から絶賛を貰った。 チェックポイントは二十三項目あり、話の内容、喋り方、目の位置や姿勢等、半分近くが五点満点、そしてスペシャルコメントが付記された。 「ポジティブ思考は非常に重要で、今、研修生には、それが必要である」と。


 フィリピン人のマルコは香港での歌手時代のスピーチだった。 彼の奥さんは香港生れの中国系で二人の女の子がいる。 大がかりなプロフェショナル用ミュージックアンプを教室に持込み、自動演奏システムの説明と香港のナイトクラブで実際に唄っているところをビデオテープで見せながら解説した。 二十分ではとても終らなかった。 でも彼はちょっとも気にしていなかった。 そして、これも大好評となった。


 元水道工事の仕事をしていた、ケアー、その前は、卵のふ化業をしていたそうだ。 当時着ていた、薄汚れたツナギによれよれの帽子、そして右手には先端に金輪の付いた長い棒を持っている。 隣の教室で着替え、突然現われたので、彼であることが分るのに、しばらく時間がかかった。 その後、彼は以前の仕事の、そのままを実演したのであった。


 金輪の付いた棒はエミュー(オーストラリアの国鳥)を捕える道具だった。 卵を巣から取り出す前にエミューを先ず取り押えねばならない。 この鳥はダチョウに似た大型で非常に怖い形相をしていて、襲われると勝ち目がない。 スピーチと言うよりはパフォーマンス、彼は合格点を得る為に真剣そのものであった。


 何時も不機嫌なブラッドは、オーナービルダーになる方法、その手順に付いてのスピーチだった。 オーストラリアでは前に述べたように、ほとんどの職業にライセンスがいり、それがないと事業が出来ない。 大工さんも同様である。


 ところが自分の家を建てる場合には、そのライセンスがいらない。 しかし家は将来必ず売られることになり、買う人を保護するために、いろいろ規定が設けられている。 建ててから決められた年数を住むことが必要であるとか、その前に建築の基礎知識を教える短期コースを受講し、それにパスしなければならない。 ほとんどの人がパスするから、さほど難しくはないのであろう。 そしてパスしたあと市当局への書類の書き方、提出方法を段階的に解説した。 彼は、世の中の事はすべて気にいらない、と言う表情をしていて、法律関係のような難しい話では、ピッタリ合っているような気がした。


 オーストラリアには器用な人が多い。 古い家を安く買い、そこに住んで楽しみながら、数年かけて改修をする。 出来あがった頃に、それを売ると良い値で売れるのだ。 そして、再び古い家を買って引越しをする。 これを繰り返しながら財を成した人がいる。 しかも、これにはライセンスが要らず、水道、ガス、電気工事以外、また建て増しさえしなければ、認可を取る必要はない。 (1999年下旬法規改正、改修にも一時的なライセンスがいることになった)


 クィーンズランダーと呼ばれている種類の家がある。 高床式の木造家屋で二百年前の植民地時代からの工法でクィーンズランド州に数多く見られることからそう呼ばれている。


 この州は低地の場所が多く時々半端じゃない程のドカ雨が降る。 カミナリを伴ってゴルフボール大のヒョウが降って車のフロントガラスを割る時もある。 この時、水はけが悪いので至る所で水害が発生する。 高床式はそんな理由と風通しが良く暑い地域での生活の知恵であろう。 屋根の形とか周囲の飾り付けも独特で内装もかなり凝っている。 今これを建てたら随分高く付くだろう。 百年以上たっても保存状態の良い立派な建物は記念館として残されている。 古き良き時代の面影、その風情があって私も好きである。


 その3LDK程度の小さな家なら、分解せずにそのまま特製トレーラーに積んで運ぶ、そんな仕事ばかりをしている業者がいる。 ここは道路が広いから出来るのだろうが、朝早く交通量の少ない時に移動をする。 そのような家の付いた土地を買って、新しく建物を建てる場合、取り壊しに費用が掛かるから、家だけを売りに出す。


前に述べたアイスクリーム屋のヨハンがそうした。 彼は一刻も早くレストランの建築に取り掛かりたかったが、家の買い手がなかなか現われず、イライラしながら待っていた。 暫くして、「やっと売れた」と喜んだ。 上、下の儲けとなったのである。


 最近私も興味が出て数軒、そんな家を見て回った。 少々手を入れて改修する必要はあるが、床などは品質の良いソリッドティンバー(一枚板)が使われていて、ピカピカに磨かれていた。 ちなみに、この売値は五千ドルが相場で、移動費は場所にもよるが、近くだと一万ドル程度である。 私も一度こんな古い家を買って、家屋の引越し体験をしてみたいと思っている。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

36 レストランの終焉

 数年後、Hの話を再び聞いた。 彼はまだ、この国にいたのだ。 勿論ビザが切れ、不法滞在だろう。 


シドニーの山道で、署へ戻る途中のパトカーが蛇行運転をしている前方の車に停車を命じた。 助手席には、若い日本人女性が乗っていて、血まみれになっていた。 彼女をナイフで突き差しながら運転していたのは、Hだった。 彼はその場で逮捕され、拘置所へ入れられた。


 その女性は、命は助かったものの、顔に大きなキズが出来てしまった。 当時のこと、近々シドニー−で裁判があるので、親と一緒にこの国へ来ると云う。 これは、この女性の渡航手続きの世話をした呆社員からの話であった。


 その話題の後、しばらくして、ある日本人青年が私のレストランヘ来た。 彼の友人がシドニーでHから車を買い、彼と二人で、この町まで、その車を運転しやって来た。 ここへ着いた途端、二人はポリスに逮捕された。 彼の車は盗難車だったからである。 Hがこの事件を起こす前、彼からその車を買ったそうだ。


 二人は警察で厳しい取調べを受けた。 ここのポリスマン、その行為が信じられなかったが、彼の友人は、ピストルの柄で頭を小突かれながら尋問を受けたと云う。 Hから、車を買ったと言っても、全く信用してくれないのだった。


 それで、「Hが車検証を、この私に預けていると言ったので、取りに来た」と言う。 彼も「そんな筈はない」と思っていたのか、半信半疑であった。 「Hなら、こんな事件を起こして、今、パラマッタの拘置所にいるよ」と教えてあげた。 私がHから受けた被害は、後にも先にもこれだけだった。


 Hの犯行が余りにも残忍なので、麻薬常習者ではないかと、ポリスが彼の住んでいたシドニーの住居を捜索に行った。 すると、そこに、例の目付きのよくない友人がいたそうだ。 Hを逮捕したと伝えても、別に驚かなかったそうである。 この話が最後となり、Hの話題は一切聞かれなくなった。


 


[レストランの終焉]


 私が、ここでビジネスを始めて丸十三年、常にハプニングの連続だった。 でも日本とは文化も習慣、環境も違う異国、いろんな出来事があって当然だったのである。


 窮地に立たされると、それを切抜けようと努力をする。 結構スリルもある、闘志も沸く、良いアイデアも浮かぶものである。 落込んだ時もあったが、そんな時には、エキサイトする出来事も起きた。


 離婚で頭を悩ましていた頃、日本ではオーストラリアブームの最盛期、レストランの前の通りで、日本のテレビ局がクイズ番組をやったり、テレビ映画のロケーションをしたり、そんな時に男優、女優、スタッフが一同で食事に来てくれた。 プロ野球選手、プロゴルファー、相撲取り、昔懐かしい歌手、又、町へ来られたら必ず、私のレストランで食事をしてくれるアイドル歌手もいた。 幸運にも、他に日本食店がなかったからである。


 珍しい話では、ある若い元男性歌手、ある理由で、この町に来て、ほんの少しの期間だったが、レストランを手伝ってくれた。これも思い出の一つである。


 とうとう調子に乗って、テレビにも出演した。 こちらのテレビ局の取題を始め、日本のワイドショーとかインタビュー。 日本から送られてきた、それらのビデオを、後生大切に保存している。 それを観ると、ビジネスでは調子の良い事ばかりを言っている。 当時レストランが繁盛していたからで、時流に乗ったに過ぎない。 それにも拘らず、レストラン業では、成功出来なかった。


でも「終わり良ければ、すべてよし」と云う。 建物の取壊しが始まるまでの数年間、人の体裁も気にせず、一人でレストランを営業、その業務に心からエンジョイをした。


 レストラン業、十三年間はあっと言う間に過ぎ、目に見えて残ったものは何一つない。 でも経験だけは人一倍豊富になった。 そして心身共に強く逞しくなった。 今後いかなる事態が起きようとも、ビクともしない。これが私の、今の財産である。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

35 日本人の犯罪

[日本人の犯罪]


 この国での事件、日本人の犯罪である。 私の最初の日本食店当時、夫婦で営業していると、ある日、日本人青年がやってきた。


「皿洗いでも、なんでも良い、仕事がしたい」と言う。 日本食店として、かなり忙しくなって来た頃で、渡りに船と、彼に働いて貰うことにした。


 彼の名はHと言う。 暫く働いて貰ったところ、真面目で仕事が早い「なかなか、いい青年やな」と、私達は話していた。


 時々、若い日本人男女の友達がやって来た。 男の方はイヤーピースをしていて、何とも言えない嫌な目付き、女の子の方も気になる表情をしていた。 過去になんらかの犯罪に拘ったか、もしくは今後なにか起こしそうな雰囲気の二人だった。 Hに彼等のような友達がいるとは信じられなかった。 「いやだな」と思いながらも、Hは良く働いてくれるので安心していた。


 ある時、Hを訪ねて、別の若い日本人女性がやって来た。 背が高くてなかなかの美人である。 店の正面、歩道に置かれていたテーブルで長い間話合っていた。 時々笑い声も聞こえ、まるで二人は、久しぶりに会った恋人同士のようだった。 「Hにあんな美人の彼女がいるとは知らなかったな」と私達は話した。


 二ケ月近くなって、Hは突然「シドニーヘ行くから、今日でここを辞めたい」と言い出した。 


そして次の日、この彼女は、若い日本人女性を連れて来て、泣きながら話し出した。 「Hが昨日、この友人のスーツケースを持逃げした、Hが、どこへ行ったか知らないか」? と聞くのだった。


 彼女の友人は昨日午後、ブリスベン空港へ着き、夕方彼女を頼って、ユニットを訪れた。 荷物のすべてを彼女の部屋に置き、二人で食事に出掛けた。 その間に彼女の持物と、この友人のスーツケースを持って逃げたと言うのだ。


「てっきり、Hは貴方の彼氏かと思った」と言ったら、「違う、部屋をシェアーしていただけ」と答えた。 「彼はシドニーヘ行くとしか言わなかった。 そこの滞在先は聞いていない」と言うと。 「今夜、自分のユニットに、もう一人の被害者も来るから、私達夫婦にも来て欲しい」と言う。 「まだ他にも被害者がいたの」? と、私は尚、半信半疑だった。



[親の死角]


 閉店後、夫婦で彼女のユニットを訪れた。 部屋には、昼間来た友人女性と、もう一人の若い男性がいた。 良く見ると、私の店へ来たことのある、お客さんだった。 彼女は今シャワーに入っていて、待っているのだと言う。 待つ間に、彼から事情を聞いた。


 彼は、Hから車を買う条件に、あることを頼んだ。 それが旨くいき、車の代金を支払った。 昨日、その車をHが使いたいと言ったので、貸したと言うのだ。 どうもその車で、今シドニーヘ向かっている。


 その時、彼女がシャワーから出て来た。 バスタオルを巻いたままの姿、彼女には、この町で知合ったボーイフレンドがいるとのこと。


 それで、Hをどうするかとなった。 シドニーのレストランに以顔絵を貼ろうかとか、税関に頼んで、出国時に捕えて貰おうとか、いろいろ提案を出したが結局、良い方法が見付からず、その夜は解散した。 猫に鈴だったのである。


 被害に遭った彼が、Hに依頼した100%犯罪となる違法行為、人前でバスタオルのまま出てきた彼女を見て、私達は、余り深入りすべきでないと感じた。


 私達夫婦はHからは、一切被害を受けていない。 今でもまだ、信じられないほどである。 


実は年が開けると建物の取壊しが始まる。 次の場所が見付かるまで、少し時間があり、この期間に夫婦揃って、日本へ帰る計画をしていた。 その間、Hに防犯の為に自宅に住んで貰おうと、話をしていたのだった。 ところが途中で気が変わり、結局空き家にして帰ることにした。 しかしHには、その計画を伝えていたのである。


「これはやばい、Hは私達の住所、それに日本へ帰る日も知っている。シドニ−へ行くと言ったが、留守の間に戻って来るかも知れない」 当時、家具も少なかったし、大切な物もなかったのに心配した。


 私達は隣、近所に防犯を頼み予定通り出発した。 そして門扉に大きな貼り紙をした。 それには、こう書いた。 「Hよ、おまえがここへ来ることを知っている。 でも家の中には金目になるものは、何一つない。 入っても無駄である」と、私は事実を書いた。 近所の人は、日本語は読めない。 でもこの意味を知ったら、びっくりしたであろう。


 日本から帰って、急いで、この貼り紙を外した。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

34  防犯対策

[防犯対策]


 彼等は、防犯には、日頃から常に気を配っている。 安全はタダではない、他人任せでなく、自分で防ぐものとの習慣が、小さい頃から身に付いている。 そうすることで、計画的でない限り、たいていは妨止出来るからである。 


家の鍵を、二重のデッドロックにし、すべてのウインドーに格子入り窓枠を取付け、各部屋には防犯アラームのセンサーを設置、その防止策には余念がない。


 忘れ物をしたり、落し物をしたりすると、自分の責任であり、戻らない物と諦める人が多い。 私のレストランで忘れ物をして捜しに来る。 そして渡してあげる。 私に感謝はするが、それよりも自分がラッキーだったと喜ぶだけである。


 オーストラリア人はガーデン、パーティをよくする。 そして全員が庭に出ている間に空き巣に入られたりする。 また、友人を招待した場合、彼等の友人を連れてきたら、要注意である。 すっかり、その家の持物や内部講造を見ていく。 また、長期、家を留守にする場合も、余程信頼のおける人以外には、しゃべってはならない。 それに、セキュリティ(防犯)会社に留守を頼むのもよくない。 実際に泥棒と、ぐるになっていた盗難事件も発生しているからである。 そのようなことにでも、彼等は常に注意を払った生活をしている。


 私は盗難後、自宅にデッドロックを追加し、窓にも格子入りインセクトスクリーン枠を取り付けた。 そして、セキュリティシステム(アラーム装置)も設置することにした。 ところで、この工事をする前に、あることを思い出した。


この地域では、たいてい家庭でのクッキングは電気である。 太いフィラメントが四連付いた立派なコンロが各家に付いている。 高層住宅が多く、電気はガスに比べて安全性が高いので、そうなったのだろう。 ところが電気は、煮物をした時、そのタイミングが取り難い、それで、ほとんどのレストランはプロパンガスにしている。 私のレストランでもそうだ。


 プロパンガスは電気に比べて、ずっと安い、良いのは分っているが、ガス管は床を通す大工事となり、随分高く付くと思っていた。 ところが、天井を通すことが分り、簡単で費用も安いと分かり、頼むことにした。


 ガス会社から工事人がやってきた。 どの家にも天井裏へはガレージの天井に六十センチ四方の入口が開けられ蓋が付いている。 私はその蓋を開け脚立を置いて準備をしていた。 家の外にボンベを二基置いて配管工事が始まった。


12ミリの銅パイプを、施工し始めた。  私はガレージ天井の入口下で待っていたのに、何時になっても、彼がやって来ない。 それで見に行くと、彼はすでに天井裏へ入っていた。 よく見ると、屋根瓦が二枚外され、そこが入口となっていた。「これはやばいな、天井板は石膏ボードで蹴れば簡単に穴があく、しかも、こちらの家は屋根が低く平屋建てが多い、屋根修理を装って空き巣が入る可能性が大である」と感じた。


 友人の紹介でセキュリティシステムの業者が見積りに来た。 彼の目付きを見て、以前のオーディオ店オーナーの顔を思い出したのである。


 私は各部屋ごとにセンサー(探知器)の設置を頼み、用心の為にと、天井裏にも一つ、しかも移動出来るように長いケーブルの付いた物を依頼した。


 そして次の週、工事をして貰う約束をした。 来る日も、来る日も、彼を待ったが、とうとう、彼は姿を現わさなかった。 彼は怒ってしまったようだ。


 注文泥棒と言う話を聞いた事がある。 自分が今、欲しい品物、高級車でも何でも、頼んでおけば手に入れてくれると言うのだ。 誰に頼むのか知らないが、これも笑い話ではない、実話なのである。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

33 レストランに泥棒

[レストランに泥棒]


 余りにも、のんびり仕事をしていたので、レストランに二度、泥棒が入った。


 それ以前にも、朝、レストランヘ行くと、入口ドアーの格子ガラスが割られ、その破片が客席の一番奥まで、飛散っていた。 裏口の木製ドアーが蹴り破られ、大きな穴が開いていたこともある。 それが四、五回あったが、デッドロックだったので、すべて未遂に終った。 裏の格子窓から手を入れて、庖丁とかシャモジ類をすべて持って行かれたこともある。 これには困った。 仕事が出来ないのだ。 取りあえず家まで、間に合わせ用具を取りに帰り、オープンしたこともあった。 それは単なるいたずらではない、それらの品物は安いがすべて売れるからである。


 泥棒は、私がレストランに居るのに入った。 ランチタイムが終わり、閉店中の三時頃、少し眠くなってきたので、客席の長椅子で横になっていた。 何時の間にか、ぐっすり寝入ってしまったのである。 ドアーを閉め、クローズサインを出していた。 私が中に居たので鍵は掛けなかった。


 泥棒はドアーを開けて堂々と入り、熟睡している私を横目で見ながら、側を通り抜け、中央にある棚の上に置いてあったカバンの中から現金だけを抜取った。


 レジスターには触っていなかった。 この機械は数十年も前の骨董品で開けたとき、びっくりするような、騒音を発する。 入口のドアーが少し開き、風が通り抜けているのに気がつき目を覚ました。 二十分程の出来事であった。


 その三ケ月後、ランチタイム終了直後、すぐに戻るからと、ドアーは閉めたが、カギをせず二階のトイレヘ行った。 前の件があったので、「やはりカギをすべきだったかな」と思い、急いで戻ってきた。 虫の知らせだった。 カバンを確認したら消えていた。 時間にしてわずか三分間だった。  私は車道に飛出し、駐車中の車の中に人がいたので、彼に事態を伝えたところ、「今、黒いバッグを脇に抱えた若い女性が路地から出て来て、道路を横切った」と言った。 私は辺りを見た、でもそれらしき女性は見当らない。 まだ時間は、たっていないから遠くへは行ってないはず、でも影も形も見えなかった。


 ポリスに報告したあと、通りにあるゴミ箱を開けて中を調べた。 現金だけを抜き取り、カバンは捨てていると思ったからだ。 その中に大切な書類が入っている。 それらを無くすと、後の手続きが面倒なのだ。


 レストランのネーム入り白衣を着て、歩道に置いているゴミ箱を片端から開け、中を覗き込んでいる。 そんな私の姿を見て、バスの乗客、町を歩いていた人々は、一体どのように思ったであろうか? 私は頭に血が昇って恥ずかしさは感じなかった。


 レストラン同辺の道路、三キロメートル程のゴミ箱を徹底的に調べた。 途中大きな川があって橋が掛かっている。 そこに投げ込まれていたら最後である。 そうでないことを祈りつつ捜し回った。 そして、とうとう見付ける事が出来ず諦めて帰って来た。


 レストランの真向い、例の瓦礫の山を隠した板塀がある。 もしかしたらと見に行った。 塀の下の隙間、草むらの中に肩掛けの紐を発見した。 それを引っ張った、カバンがずるずると現われた。 やはり中の現金だけがなく、書類等はそっくり残っていた。 それに有難いことに封筒に入れていた別の現金がそのままあった。 この国では、封筒に現金を入れる習慣がない。 とりあえず「ホッ」と胸を撫で下ろした。


 泥棒は、レストランの内部事情に詳しい、私の行動を良く知った、前回と同一人物である。 盗られた直後、私は運悪く、別の方角へ走った。 神出危没、短時間にて旨く仕事をした泥棒の方に賦があり、盗られるハメとなった私の方に不徳があったようだ。


 車の中に、まだ、先程の人がいた。 彼に頼んでポリスステイションまで同行して貰った。 今度は証人が一緒だ、しかし前回同様、取合ってくれなかった。


 


[うっかりの被害]


 でも、こんな愉快な出来事もあった。 昼の閉店後、いつものように、準備をしていたら、流暢な日本語を話すオーストラリア人の青年が入ってきた。 見ると彼の手に、うどんと書かれた、のぼりを持っている。 良く見るとレストラン正面のデコレーションであった。


 「今、これを持って、町の中を練り歩いていた若者がいた。 ここの物だとすぐに分ったので、取戻してきた」と、親切に届けてくれたのであった。 私は丁寧にお礼を述べ受取った。 のぼりを持って行かれたのに全く気が付かなかった。 それにしても、のぼりを持って町中を練り歩いていた若者達に感謝せねばならない。日本での、ちんどん屋さんのように、最高に良い宣伝となったからだ。


 二度食べ逃げがあった。 帰り際にレジスターまで来て、声を掛けてくれるだろうと安心し、後ろ向きでも客席が写るカガミを見ながら食器を洗っていた。 すると、スーと幽霊のように、消えてしまった。 まさか、日本人青年がやるとは思わなかった。


 もう一つは、中年のオーストラリア女性の二人連れ、メニューボードを見て、一番、高い料理を注文した。 食べ終わった後、二人で長い間、大きな声で話をしていた。 私は野菜を切っていて、ふと顔を上げたら、何時の間にか、二人がテーブルから居なくなっていた。 急いで表に飛出し、通りを捜したが、すでに遅かった。 一人でやっていると、どうしても手薄で、このようなハプニングが度々起きる。


 私の、これまでの話から、この地域は犯罪が多発し、恐ろしい所との印象を受ける。 では、オーストラリア人は、それについて、どのように考えているのだろうか?


 自宅の盗難については、前に詳しく述べたが、ここでは対処方法を考える。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

32 パニック営業

 [一人で営業]


 数ヶ月が過ぎ、事情があってウェイターが辞めることになった。 いつものように貼り紙をしたが、今度ばかりはなかなか見付からなかった。


 私は落語の一節を思い出した。 「船場の大将、人を半分に減らしたが、商売がやっていける。 それでその半分にしたところ、それでも旨くやっていける。 とうとう自分一人となってしまった。 しばらくして、彼も、どこかへ行ってしまった」


 私はどこへも行かないが、今度は一人でやってみようと考えた。 その内に人も見付かるだろうと思ったのである。 それには店内を少々改造する必要があった。 客席とキッチンの仕切りを取りはらい、カウンター台を取付け、レジスターを置いた。 出来た食事は、そこまで、お客さんに取りに来て貰い、それと引替えに代金をいただく、お水とお茶はカウンター台に載せ、セルフサービスとした。 カッコよく、卓上に置いていたメニ−ブックをやめ、カウンター台の頭上に写真入りの大きなメニーボードを取り付けた。 この工事もすべて自分でやった。


 これで私は、お客さんを見ながら、クッキングや洗い物が出来る。 お客さんからも、こちらの行動を一部始終見ることが出来る。 これはどこのレストランでもやっているから、珍しくない。 変なのは、何時も私が、唯一人で仕事をしていることである。 世間体さえ捨てれば良い。 私はこの町に住んで長いが、今でも、自分は旅行中だと思っている。 「旅の恥は掛け捨て」と、言われている。 旅行者の中には、人様に迷惑を掛ける行為をして、そう思っている人がいる。 でもそれは誤り、本当の恥ではない。


 数年前のような忙しさはなくなった。 お客さんも、ほとんどが常連の人達だった。 仕込みと準備さえ完璧にしておけば、調理による時間的な迷惑はかけない。


 これが大変うけた。 そしてなによりも嬉しいのは、今まで従業員に渡していた給料がそっくり残ることであった。


 


[パニック状態]


 ところが、時々、ドカッとお客さんが入ることがある。 近くのホテルにツアー客がたくさん滞在し、自由行動の日で、食事が付いていない時であった。 ツアーの種類がまちまちなので、その曜日は決まっていない。 今までに予想を立て、手伝いを増やして待っていたが、すべて的が外れた。 そんな持、すぐに来てくれる助人もいないから、成り行きまかせにしていたのである。


 満席になった時、それは、それは大変である。 パニック状態になりながらも、急いで入口に走って行き、ドアーを閉め、カンバンを吊るす。 それには「勝手ながら、ただいま、満席に付き、しばらく閉店させて頂きます」と書いてある。 人間の心理で、中に人が、いっぱい居ると、余計に入りたくなるものである。


 大きく日本語で書き、目の位置に吊り下げていた。 それでも気付かず入ってこようとする。 こんな場合、丁寧にお断わりをし、近くにある日本レストランを紹介した。 でも、こんな時に限って、常連さんがやって来る。 こちらは断われないので非常に困った。


 満席となったお客さんに向かって、「今日は事情があって、一人でやっています。 近くに日本食レストランが数軒あります。 お急ぎの方々は、そちらの方へお願いします。 その場所はここと、ここです」と告げた。 私は少しでも、余所へ行って貰った方が有難い。 でもそう言うと、返って出て行く人がいないことが分った。


 納得して待っていてくれる、私は落着いて、お客さん全員の注文を聞く、時には、私の都合で注文を決めてもらったりする。 うどんかラーメンがほとんどで、すでに準備が整っているから、作り出したら早い。 客席からキッチンが丸見えなので、私が一生懸命にやっている姿を見て安心している。


 台風一過、昔のように、お客さんが外で待っていて、入れ代わることはなくなった。時間にして、忙しいのは一時間程、その後は、入っても数人である。 日本人客は食べ終わると、すぐに出て行くから助かる、それに食器類はカウンターまで運んでくれる。


 お客さんの中には、私が一人でやっているのを見兼ね、気の毒に思ったのか、「手伝いましょうか」? と、親切に言ってくれる人もいる。 私は丁寧にお断わりをし、山となった食器類の洗い物を始める。 それが終るまで数時間はかかる。 でも売上げが良いので、全然苦にならない。


 それに比べ、暇な時は困る。 準備した材料が、いたみ出す。 もったいないが捨てるしか方法がない。 レストランの外に出て、通りを見ると、しんと静まり、通りに人気がまったく居ないことに気付く、こんな夜は早く閉める事にしている。 今までの経験から、待っていても無駄なのである。 ところがそんな夜に限って、閉めた後に常連さんがやって来て、後日叱られた。


 レントが安くなったし、使用人の給料の心配もいらないから、何のプレッシャーも掛からない。 人が何と言おうと、こんなレストランの営業方法もあったのだと、私は心の底から、この仕事をエンジョイした。


 冬場の暇な時期、ニュージーランドヘスキーに出掛けた。 レストランの貼り紙には、はっきりとその理由を記載し、一週間休業した。 落語で「一人になったらどこかへ行ってしまった」が実現したのだ。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

31 レストラン再開

アレンは担当員女性の一人と、些細なことで口喧嘩を始めた。彼女は怒って部屋から出ていった。 あとに残ったソフトな担当員にアレンは言った。 「私は今、ビジネスを買うつもりで、あちこちの不動産会社を訪れている。 でも彼女のように訳の分らぬ事を言う人は初めてだ。 非常にナスティ(嫌な女性)である」と。 ソフト女性はなにも言わなかったが、私は彼女の顔にチラッと「その通りなのよ」との表情をすかさず読取った。 一緒に仕事はしているが、彼女達にもお互いに確執があったのである。


このソフト女性の妹さんが、この三年後、総選挙でクィーンズランド州から立候補、国会議員に当選した。 レイシズム(民族主義)を唱え、ナチの復活だと騒がれた、例のワンネイションパーティの党首である。 オーストラリアに住むアジア系の人々から一大非難を浴びたが、イギリス系の人達の中には彼等に対して言いたかったこと、喉まで出、つかえていた鬱憤の代弁者となった。 アジア系の人々にも反省せねばならぬ点もある。 彼女の出現でお互い腫れ物から少しは膿みを出し合えた。 結果としては良かったのではないかと思う。 しかし反発の方が多く、1998年10月の総選挙では落選してしまった。


彼女は何度も部屋を出入りした。 ランドロードと電話で、掛合っていたのである。ランドロードとしても、今、私に出られたら、次のテナントを見付けるのが難しい。 町中の空店舗のことも知っている。 それにレストランは設備を外したら、無残な姿となり、次に入るテナントは相当内装費がかかる。それにリースが短いと借り手がないのだ。 一時間近くランドロードとネゴシエイションが続いた。 そしてとうとう、ランドロードから「オーケー」の返事を得た。 私の言い分がすべて通ったのだ。


 私は気分が良かった。 今まで、この不動産会社に抱いていた、鬱憤がすべて吹き飛んだ。 もし私一人でここに来ていたら、ここまで粘れなかっただろう、アレンが側にいたから気丈になれたのだ。


 レントは最高時の半分以下となり、将来値上げはしない。 しかも商売不振になれば、何時でも、こちらから店終が出来る。 以前の店と同様、建物の取壊しまで、続けることになりそうだ。


 


[キャンセルのキャンセル]


 アレンにお礼を言い、不動産会社の入口で別れた。 その足でキャンセルした許可類の取消しに出掛けた。


 この国独特の仕事の遅さが幸いして、簡単にキャンセルのキャンセルが出来た。 市当局のオフィサー、「それは、よくあることだから、保留にしていた」と言った。 私は、「エー」と驚いたが、それはどうでも良い。 なにもかも旨くいったのである。


 次の日は材料の調達であった。 肉、シーフード、野菜類、すぐに手に入る物もあれば、数日かかる物もある。 肉は一旦凍らせて、スライスをし、もう一度冷凍する。


 通常、百キロ近く仕入れて、その準備をする。 この国では肉を薄引きする習慣がない、業者に頼むと非常に高く付く、それでいつも自分でスライスするのだ。


 すべて準備が整ったのは、一週間後だった。 同時にレストラン再開の貼り紙と求人広告もしていた。 ウェイターがすぐに見付かった。 そして私は、非常に新鮮な気持ちで、次の週から再オープンしたのであった。


 一週間と少しのブランクだったが、すぐに何時もの調子に戻り、客の入り具合も、まったく同じで、何の影響もなかった。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

30 買い手が逃げた!

 [買い手が逃げた]


 約束の十時が過ぎた。 ところが彼も不動産会社の担当者も現われない。 「おかしいな、確か今日のはずだったが、私は一瞬、日時が間違っているのでないか」と思った。


 十一時過ぎ、電話が入った。 それは不動産会社からだった。 「ハプニングが起きた、すぐにこちらまで来てほしい」との知らせだ。 私は何がどうなったのか、さっぱり分らない。 でも今日が約束の日に間違いないことだけは分った。


 急いで駆付けると、担当員は、困った顔をして、「今日彼はニュージーランドヘ帰ってしまった」と告げた。


 私には、まだピンとこない。 「彼は又、こちらへ戻って来るのでしょう」? すると、「彼はもう戻らない」と答える。 そこで、やっと私は事態が飲込めた。


 私は、明日もう一度、ここへ来る約束をして、ひとまず家に帰ることにした。 そして、友人のアレンに、このハプ二ングを伝えた。


 あくる日、アレンと一緒に不動産会社へ乗込んだ。 一人だと、担当員に巻かれてしまいそうだったからである。


 会社に着くと、いつもの女性担当員二人が出てきた。 普段と違いニコニコし、非常に愛想が良かった。 女性でも、男性以上にやり手で、強引な仕事ぶりで有名である。 私が一人で来ると思っていたのか、アレンを見て、突然笑顔が消え、ムッとなった。


「私は英語力に問題があるので、彼に通訳として来て貰った」と告げたら、しかたがないなとの表情で納得した。


 事務室に入るやいなや、二人は昨日の出来事を、しゃべり始めた。


 キイウイ(ニュージーランド人)の彼は、デポジット(手付け金)を少し入れて、ランドロード代理の、この会社と借り契約を結んだ。 本来、私にリース権があれば、その相手となる。 彼はコンディション(条件)を入れさせた。 「但し、銀行からの融資が受けられたなら」と。 この国では、このような条件を付けることが多い。 第三者の意一つで、物事が決着するのである。


 彼は銀行から、融資を断わられ、昨日帰国したのだった。 その一筆があったから、デポジットも彼に返したそうである。


 そこで慌てたのは、この二人だった。 まさか銀行が断って来るとは思っていなかったからである。


 私は、あっけにとられてしまった。 彼がどのようなモーゲジ(担保物件)を提示したか知らない。 テナントとして入る場合、その店舗は担保物件とはならない。


 オーストラリアとニュ−ジーランドは同じコモンウェ−ルス(英連邦)の国であり、仲の良い兄弟のようだ。 第一次大戦時、トルコのガリボリで一緒に戦い激戦となったことから、アンザックデイと言う記念日も作られている。 したがって、ニュ−ジーランド人には、銀行も非常に寛大だと聞いていた。 しかしビジネスとなると話は違う。 いずれにしても、おそまつなのは、この二人である。 目先の欲にとらわれ、バカな一筆を入れさせたものだ。


 私の売り値、たいした金額ではない。 たったの九千ドルだったのである。



[再オープン]


「それで、このあと、どうするか」? と尋ねた。 「まだ、どうするか、決めていない」と私は答えた。 次の買手が見付かるまで、営業する方法もあるが、再開するには、時間が掛かる。 昨日、キャンセルしたものを、もう一度、キャンセルしなければならない、しかし、それらを迅速に元に戻してくれる保障はない。


 材料の仕込みも、その注文から始めなければならない。これもすぐに納品してくれそうにない。 人を当てにする場合、この国では、まず予定が立たたないのである。


 店内と外側のメニーボードの取付けとか、デコレーション、これは自分がするから、すぐ出来る。 営業開始まで二週間と計算した。


「こうなったのは、明らかに貴方達の責任である。 再オープンするには、時間がかかる。 少なくとも二週間が必要である。 それには条件がある。 二週間の無料レント、それにマネージメント費、シティレイツを含めたレントを、この金額にし、もちろん将来値上げをしないこと、これらが聞き入れなければ、これから即刻レストランヘ行って店舗内設備すべての取外しをする」。 一担店終していると強気になれる。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報

29 レストランの買主

 私のレストランの新ランドロードは将来、この建物を取壊し、新ビルを建てる計画をしている。 それを、いつ頃から始めるのか、まだ知らせて来ない。


 以前の店とそっくりの状況になってきた。 前と同様、店終いしたら、椅子、テーブル等、設備器具すべて持出さねばならない。 中型トラックに一杯となるだろう。それらを家に置くのは好まない。 長いリースが取れる空店舗を見付けて、この設備を移動し、しばらく営業して、ビジネスを売ることも考えられる。


ところがレストランを開店させるには、水道施設、下水槽、換気設備の規則があり、それに合致しないと許可が降りない。 その設備の為の立地条件の備わった空店舗を見付けねばならず、どこでも良いとはいかないのだ。 下水槽はレストラン専用が必要で、新しく設置すると非常に高い、イグゾートファン(換気装置)も、大掛りな設備がいり、工事費は両方で、数万ドルはかかる。


 ビジネスが売れれば問題はない。 でも、町中のほとんどのレストランが売りに出されている、簡単に買手が現われるとは思われないのだ。 移転をして買手が付かなかったら惨事である。 毎年値上げされるレントに悩まされ、同業者との大競争に巻込まれる。 もう一度、挑戦をしてみようとも思ったが、もう気がすすまなかった。


 


[レストラン設備の買主、現われる]


 なにか良い方法がないものかと考えていたところ、ある人が、「設備のすべてを、超安値にすれば売れる」と教えてくれた。


 私はマネージメントの不動産会社に、その買手を依頼した。 そうすると「ランドロードから二年間のリースを取り付けてもよい」と約束してくれた。


 私は喜んで、その買手を待った。 一ヶ月の間に、三人やって来た。 その中の一人、メキシコ系ニュージーランド人が非常に興味を持った。 「この付近には、メキシカン、レストランがない。 ニュージーランドでもレストランを経営していて、オーストラリアヘも進出したい」と言う。 なんとなく虫の好かない人物だったが、買主だからと気にしなかった。


 二日後、営業中に彼が一人でやって来て中の様子を見ていった。 そして三度目、不動産会社の担当員と共に、再びやって来た。 今度は、値段の交渉となった。


 私は二年間のリースは無視して設備品だけの値段を付けていた。 以前のドーナツ、ショップと同じリ−ス期間があって、それが延長になる可能性もある。 先の事は誰も分らないからである。 その買値と比べたら、ずっと安い値段だった。 ところが彼は、いろいろ難癖を付けては、更に値切ってきた。 こちらの足下を見たのである。


 私が突跳ねると執ように食い下がってきて、不動産会社担当員も、彼の側に回り、私に圧力を掛け始めた。


 私なら短期のリースは取らないし、何時ここから出ると言出すか分らない。 彼とリ−ス契約をすれば、最低でも二年間は確実にここに止まり、それにレントの値上げが期待出来る。リース文書作成費は家主が負担するらしいが、それは値上げ分で取り戻せる。


 彼等は出来るだけ、安く叩き、私を追い出そうとしていた。 「ではここを出て貰うことになるが」と担当員は、最後の切札を言った。


 私は頭がカッカッとなってきた。 薄情なものである。 私がここで商売をやって六年になる。 レントがどれだけ上がっても、毎月キッチリと支払った。 トラブルと言えば新聞記事だけ、それは私一人の責任ではない。 貴方の会社にも半分の責任がある。 調停役の立場にありながら、一方的に家主寄りだったからだ。 そのくせ先日ここへ来て、以前のランドロードの話になった時、「彼はひどいランドロードだった」なんて、今頃になって言出した。


 私は頭に血が上がると損得は考えない、「それなら設備品すべて持出す、しかも壁板も剥がし、持出せない物は使用出来ないよう、ぶっ壊す。 これらはすべて私の物である」 担当員は、サッと顔色を変えた。


 だがまてよ、私がここで喧嘩をしたら、お互いまずい結果となる。 価格の中間を取って話を決めた。 そして二週間後にテイクオーバーさせることにしたのである。


 私はレストランの正面に大きな張り紙をした。 英語と日本語で今までの御礼と、次はメキシカン、レストランとして再オープンされ、引続き尚一層の御愛顧をお願いします、と告げた。


受け渡しの日がやってきた。 私は朝早くからレストランへ来ていた。 材料等はすべて処分し、空になった冷蔵庫、冷凍庫はきれいに掃除をし、電源も切っていた。 キッチンと客席も掃除をし、清めておいた。 電気会社、ガス会社、電話局、それに市当局のフッドハイジーン(食物衛生許可証)も、本日付でキャンセルとなるよう手続きをし、用意万端整えていた。


テーマ:オーストラリア - ジャンル:海外情報