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異国!五十の手習い。11 あわや退学?

服役中の人達が一年に何度かバスで行楽地までレクレーションに来ると云う話、又、殺人犯でも、クリスマスには休暇? を取らせて帰宅させる。 近所に住む被害者家族がそれを知って当局に抗議をしたが取合わなかったそうだ。 人権優先なのか、余りにも寛大すぎると思えてならない。


「マリワナは本当に有害で、その使用を将来も禁止すべきか? では、タバコの場合はどうすべきか?」等々、麻薬問題にも触れ、意見を問うた。


 オーストラリアでは麻薬事件が多い。 周囲が海に囲まれ、監視の目が届かない。 ヘロインの密輸は半端な量ではなく百キロ単位で入ってくる。 1998年にも陸上げ寸前に発見された。 政府は当時、あらゆる分野で予算のカットをしていた。 密輸の監視にも予算の削減をした。 それで密輸が増え始め、これではいかんと気が付いた矢先だった。 ずっと前の事件では、警察幹部も関与していたと言うからどうしようもない。


この国の法律では密売人は罰せられるが使用者は無罪である。 彼等に治療し再起更正をさせる施設があるのかどうかは知らないが野放し状態となっている。


16才の少女がヘロインの打ち過ぎ、路上で死亡、とのテレビニュース、これによる1997年度の死亡者は7百人を突破した。 患者の年齢層も下に広がり15才前後となってきている。 彼等は同じ注射針で回し打ちをするからエイズ感染予防の為にと政府は無料で注射器を配った。 又、打つ場所を提供したある宗教の教会も出現した。 これを知った、毎日インシュリン注射の必要な糖尿病患者は、自分達にもと抗議をしたが聞き入れてくれなかった。 なにがどうなっているのか、私にもさっぱり分らない。


 


[あわや退学?]


 欧米諸国では、自分をいかに主張して、高く売込み、良い給料とポジションを得るか、その為には物怖じせず、人前である程度話が出来ないといけない。 そのトレーニングだったのである。 この課目の終わりに一人あたり、二十分間のスピーチがあるから、その原稿を書くようにと云われた。


 夫君ゲリー教官からは、今週終わりにテストをすると伝えられた。 前回のテスト同様、さほど難しい問題は出ないだろうと一切勉強しなかった。 思ったとおり、当日はテキストを見てもよいことになった。 ところが、こんなテスト程難しい。 すべて書入れ方式で質問がかなり複雑であった。 テキストのどこに書かれてあるのか見付けるのが大変で日本語ならばともかく、知らない単語が一杯で、時間がどんどん過ぎて行った。


 他のクラスメイツは書き終えて教室から出ていき、とうとう私一人になってしまった。 もう時間がない、目がくらくらしパニック状態となった。 出来ていないのに提出せねばならない。 もう駄目だ欠点に違いない。


 解答合せをすることになり、テスト用紙を返して貰った。 でも点数が書かれていなかった。 ゲリー教官が、私の側へやってきて、心配そうな顔で「どうしたのか?」と尋ねた。 「英語力の不足です」と私は答えた。 「このキャンパスにスチューゼントサービスセンターがあるから、そこへ行って相談するように」と彼は言った。 さあ大変なことになった。 もしかしたら英語力不足で退学になるかも知れない。


 ランチタイム、その事務所へ行ってカウンセリングを受けた。 外国からのスチューゼントは、英語力のテストがあって、それに合格しないと入学出来ないことになっている。ところが私の場合、ここに長く住んでいるので、義務教育終了のオーストラリア人と同様に扱われテストもなく、手続きも非常に簡単であった。


 担当員は、「この学校には英語レッスンのクラスはなく、別校のTAFEで勉強するように」と担当者を紹介し、面接日を決めた。 いよいよ面倒なことになってきた。 英語クラスヘ通学するとなれば当然ここを辞めねばならない。 「困ったな、しまった、英語力不足なんて言ったのがいけなかったのだ」確かに英語力の不足はある。 でもテストさえ良ければ、こんな事にはならなかった。 もっと勉強していれば合格点が取れたのだ。後悔してもどうにもならない。 何か良い方法を考えこの場を切抜けねばならない。 ゲリー教官にはオフィスでの面接の件を報告したが、非常に憂欝な気分だった。


 そもそも私が、この学校へ入学したのは、転職の為であった。 この町で十三年間、日本レストランを営業していたが、その建物の取壊しを機に他の職業へと転向する為だった。五十才を過ぎての転職は難しいことは分っている。 しかしレストラン業は、もうやりたくなかった。 今度は自宅が使え、しかも一人で出来る仕事として、この分野を選んだのだ。 若い人と同じようにはいかないし、英語力でも無理があると最初から分っていた。 それで一番得意の学科、電気を選んだのである。 もしテストに合格しなくても、このコ−スが終るまでは通学するつもりだった。 オーストラリアに長く住んでいるのに、まだこの国の学校の内情は知らない。 どんな先生で、どんな生徒が居るのかと興味もあった。


 ずっと前、中学校から入学してみようと思ったことがあった。 しかし、余りにも年齢差があり、周囲に迷惑を掛けるといけないと思ってやめた。


 次の日、英語クラスの担当員に電話をしてインタビューをキャンセルした。 「チェンジマイマインド」(気が変わった)と告げたら簡単に了解され、改めてこの言葉の便利さを感じた。 さてゲリー教官には、どのように伝えるか、これが一番難題だった。


「そうだ、本当のことを言えばよい」彼には、「まもなく、私の得意な実習の課目が始まります。 英語力の不足はクラスメイツにヘルプしてもらってクリアーします。 このコースはなにが何でも最後まで勉強したいのです。 これが終了したら英語クラスを受講します」  そう言うと彼は、「オーケーノープロブレム」と言って簡単に了承してくれた。



異国!五十の手習い。10 続、授業内容

 研修生の中に、四人のフィリピン人がいた。 同じ東洋系、顔形が似ているので親近感がある。 若い三人は20才前後、一番年上が35才で、名はマルコと言った。


 彼はフレンドリーに話し掛けてきた。「貴方は日本人か?」 私は中国人に見られることが多い。 別にどちらでもよいのだが、ずばり日本人と言ってくれたので嬉しかった。


「Mと言う日本人歌手を知っているか?」 M歌手と言えば、日本人なら知らない人はいない程の有名人である。 「昔、彼と一緒に仕事をし、友人だ」マルコが突然、言出したので驚いた。 彼は十年前まで香港で歌手をしていたそうだ。 その時M氏と一緒に仕事をしたことがあって、それ以来の友人だと言う。 彼はM氏の家庭事情まで詳しく述べ、まんだら嘘でもなさそうだが、私には余り興味がなかった。


 マルコはゴルフが好きで、近々一緒にプレイしようと話していると、担当教官がエレベーターから出てきた。 休憩中、その前で立ち話をし、いつの間にか、時間がとっくに過ぎていた。 ふと我に返り、教官の後ろに付いて教室へ戻った。


 第三週目から、「オキュペイショナル・ヘルス・アンド・セイフティ」(職場での安全と健康)それと、「コミュニケイションズ・アンド・インダストリアル・リレイション」(対話と労使間係)の課目が、毎日半日ずつの授業となった。                     「ヘルス・アンド・セイフティ」の教官はニ−ジーランド出身で54才、小太りでいつもパイプタバコを、ふかしていた。 ゴルフが好きでハンディは18、忙しくて月に一度のプレイ、でもハンディはしっかりキープしていると自慢した。 「コミュニケイション」の教官は二人、それが夫婦だから珍しい。 御主人の名はゲリー、奥さんはベティ、二人の年齢は共に38才前後、ベティは、きれいな人でファッショナブル、毎日洋服を着替えてさっそうとクラスヘやって来た。


 ゲリーのクラスでは労使関係でトラブルが起きた場合、どこへ申したてをし、どのようなプロセスで解決されていくかを、毎回ビデオを見せながら説明した。 そして、それについての感想を聞いた。 この国に国民所得法が制定され、年齢、職種、勤務条件によって給料の額が決められている。 フルタイム、パートタイム、カジュアル、契約制等があり、それぞれ労働条件も異なっている。


 フルタイムでは、週30時間から40時間、土曜、日曜、祝日はもとより年に一回、四週間のホリデイを与え、その期間の給料は普段の十七パーセントの割増し支給となっていて、年金も雇用者側が負担することになっている。 よほど業積の良い会社でないとフルタイムは雇えない。


 パートタイムは、一週間の勤務時間が決められていて、フルタイムよりも条件は良くない。 そのかわり時給が高く、日曜、祝日に働くと二倍以上の支給額となっている。


 ハンバーガー等、ファーストフッドチェーン店で15、16才のティーンエイジャーがたくさん働いているが、彼等のほとんどはカジュアル勤務である。 年が若いので時給が安くて時間数も短い、雇用主の責任も軽いので、人手が要る営業時間の長いファーストフッド店では必要な人材である。


 毎年法律が改正され、時給率も変わるので、雇用主は常に新情報を得なければならない。 勤務条件、給料等で雇用主と従業員がもめる、そんな場合、インダストリアル・トライアルビューロー(産業界法廷)と言う国の機関に調停を依頼する。 この法廷は絶対的な権力を持っていて、裁決すると双方その命令に従わざるを得ない。


 ベティ夫人のクラスでは、毎回授業の始めに一分間のスピーチをさせた。 新聞、テレビで、今問題となっている話題を取上げ、その感想を述べさせるのである。


「キャシーフリーマンは、アトランタオリンピックで優勝したら、アポリジニーの旗を持って表彰台へ上がるだろうか?」


 彼女はオーストラリア原住民アポリジニ−である。 カナダでコモンウェールス(英連邦)スポーツ大会が開かれた時、彼女は400メートル陸上競技で優勝し、その時、オーストラリアとアポリジニーの二つの旗を持って競技会場を回り大きな反響を呼んだ。 カナダでのインディアン問題と同様、オーストラリアでも原住民とは土地問題でトラブルが続いている。


 私は、「彼女は旗を持ち込まないだろう」と答えた。 英連邦で植民地だった各国原住民達は英国の人々にいつも不満を持ち続けている。 その抗議の現われであって、オリンピックのように世界中が集まる国際競技では、それをしても無意味なのである。


 後日、彼女はアトランタオリンピックの同競技で銀メダルを取ったが、アポリジニ−の旗は持たなかった。


「マーチンブライアントには死刑が適当か?」 彼は、1996519日、タスマニアの観光地でライフル銃を乱射して36名を虐殺した。 この国では死刑が廃止されている。 極刑がないと強悪犯が多くなる。 オーストラリアの刑務所はどこも満杯状態だと聞いている。



異国!五十の手習い。9 授業内容

ライセンス保持者でないと、電気に一切触れてはならない。 天井にある照明器具の電球の取替え以外、たとえば、パワーポイント(コンセント)の取付けや取換え、又はケーブルやプラグの交換、電気コンロやトースター等、家電製品のパーツの取替え、修理はしてはならないのである。 しかしスーパーマーケットで、各種の部品、明らかに電気工事を必要とするパーツ類が売られている。それらは一体誰が買って取り付けるのか?謎である。 工事屋さんは、通常業者用の問屋さんから買っているのだ。


 一般にラジオ、テレビ、コンピューターのような弱電製品の修理にはライセンスが要らない。 しかし交流の240ボルトを通電するから、ディストリクト(区分)ライセンスを取得しなければならない。 このライセンスを取るには、三年以上の経験と、その会社の推薦がいる。 それに、この免許は範囲が限られていて、弱電以外の電気器具類の修理は出来ない。 年々法律が改正され、色々と複雑で学校の先生でも意見がまちまちであり、残念ながら、私にもそれ以上のことは分らない。


 この電気科コースは、アプレンティスシップの前の段階で、一年間の授業を終えると、契約雇用主は、その人の能力、習得技術を見て判断し年数の削減をする。 半年から一年を四年間から差し引いた残りが契約期間となる。 そして、この間の給料は国民所得法に基づき支払われる。 ちなみに1998年の低所得者で週給が税込み350ドル、アプレンティスシップ初年度では160ドル程度である。年々少しずつ昇給はするが、基本給が安いので上がっても、たいした額にはならない。 それで大抵、若い人達に限られてくる。 家賃の要らない親の家で暮らすとか、シェアーメイトを見付けて雑居するとかである。


 


[授業内容]


 TAFEカレッジの授業は、最初の二週間は、一般教養と電気の基礎知識の授業であった。 授業が始まる前、全員に新品の文具が支給された。 網糸の透明プラスチック製の大きな筆入れの中に、HBのエンピツ三本、赤と黒のボールペン、マジックインク、三十センチサシ、消しゴム、百枚入りバインド製ノートブック、又、コ−スの終るまでの貸与として工業用カシオ電車、それから後日、技術実技が始まる前に、サイズに合せて新品のツナギ作業服と安全靴も支給された。 これで、一年間の授業料は534ドル、その中にすべてが含まれていた。 私の場合、無収入だったので、さらに割引され、実際に支払ったのは155ドルだった。 全く、至れり尽くせりの感がした。


 二週目の終わりに、テストがあった。入学時のような能力テストで、移項と三角関数の問題で答案用紙を持っていくと、すぐに採点してくれた。これが何と全部正解、教官から、「ウエルダン」と誉めて貰った。私自身も信じられなかった。四十年前に中学校で習ったが、このクラスで復習したことで、甦ってきたのである。


 想えば、当時の担任は数学の先生で非常に怖かった。 小柄で頭でっかち、険しい目をして闘志満々、授業中よそみなどしているとチョークが飛んでくる。 机の外に足を投出していると蹴り飛ばされた。 悪ガキ生徒でも、この先生には一目を置いていた。 毎日ピリピリしながら勉強し、その時の記憶が今でも鮮明に思い出される。


 私は年を取っているからと、もう諦めてはいたが、まだまだ大丈夫と自信を深めた。


 


[クラスメイツ]


 クラスメイツの中にマークという36才の研修生がいた。 彼はヘアードレッサーと散髪屋のライセンスを持っている。 数年前、シドニ−のTAFEカレッジで短期間だったが、ヘアードレッサーの先生として教えたこともあった。 他に数種のサティフィケイト(終了証書)を持っていて、それらを私に見せていた。 日本語を少し学んだこともあり、片言まじりで話した。性格が温和で人当りが良く、私の良い話し相手となった。


 彼は電子科を専攻していた。 二つも立派なライセンスを持っているのに、どうして、そのコースを受講するのか分らない。


 私はテストを終え外にいると、しばらくして彼も出て来た。 彼は中学校で三角関数は習わなかったと言う。 私は日本でこのように習ったと図を書いて説明した。 サインは頭文字のS、コサインはC、タンゼントはTの、それぞれ小文字の綴り字を、90度の角度を右下に置き直角三角形を描き、左の角度を基点にして書込む、日本では分数を書く場合分母を先に描いて棒線を入れ、その上に分子を書くから、これが旨くいく。でもこちらでは、先に分子を書き棒線をいれ、ディバイド(割り算)と言いながら分母を書くので、これが適用出来ない。側にいたもう一人のクラスメイツが、それを熱心に聞いて非常に関心を持った。


「ところでマーク、テストの結果は?」「エ−、まだ終えてないのに、どうして外へ出て来たの」「教官がクラスルームからいなくなったので自分も出て来た」


 教室に戻ると、まだ数人がテストに取り組み中であった。 彼らは顔を上げこちらを見てニコニコ笑った。このテスト、さほど重要なものではなかったのである。


 午前十時前後になると、研修生の方から、スモーカー、スモーカーと聞えてくる。 スモーカーとは、タバコを吸う時間、つまり休憩時間のことである。 教官も、その時間を常に気にし、声の掛かる前に言い出したりする。


 授業中、研修生が突然席を立って教室から出て行く。断わりもしないで、一体どこへ行くのだろうかと不思議に思っていた。大切な熱の入った講義中でも、休憩時間の前後でもそれをする。しばらくして、彼等は便所へ行っていることが分った。教官の方も別に気にしていないようだが、一生懸命教えている最中、調子が狂うことに間違いはない。



異国!五十の手習い。8 TAFEカレッジ

[旅立ち]


 ジョニ−の友人がアルバータ州のカルガリーに住んでいる。 数ヶ月前、彼がジョニ−の家を訪問した時に、私は彼に会った。 私がカナディアンロッキーを観光したいと言ったら、ジョニーは、彼に連絡を取ってくれた。 カルガリーにカナディアンロッキー観光の出発点があったからである。


 当日、彼は私を空港まで出迎えに来てくれた。 そして、カルガリータワーと町を案内して貰った。 タワーからは、はるか彼方、赤茶けた砂漠地帯の中に石油コンビナー卜群が見えた。 ここは石油の町だったのだ。 カナダにこれほど大きな石油生産地があるとは知らなかった。 ここはどの州よりもガソリンが安いと聞く。


 彼はこの町で会計事務所をやっていた。 事務所に立寄って電話をし、ガールフレンドを呼んで、私を夕食に招待してくれた。 そして、その夜、彼の自宅に泊めて貰った。


 気さくで、おおらかな彼は、自分の使っているウォーターベッドを私に提供し、自身はリビングルームの長椅子で寝た。 このような文化の違いもあったのかと驚いた。 二度と合うことがないかも知れない私に、何も求めない本当の親切である。 彼には大変世話になった。 何時の日か、必ず再会して、その御礼をしたい。 そしてジョニ−にも感謝しなければならない。彼の顔でそうしてくれたのである。   


ジョニー夫妻がギリシャヘ行くことに決まったのは、私がカナディアンロッキー観光から帰って間もなくだった。 英語教師として一年間の予定である。 家は他人に貸すが、私のホームステイはそのまま続けても良いとのことだった。 でも私はアパートを借りる事にした。 この国での滞在もあと数ヶ月となり、自由奔放、気ままな生活がしたかったからである。 同時に自動車も買った。 中古のフォードピントで2ドアー、色は真紅だった。 このモデルはガソリンタンクに欠陥があって、追突されると炎上する、大変危険な車だと分ったのは、ずっと後からだった。


 そして、十ヶ月間のカナダ滞在を終え、途中、車が数々のトラブルを起こしながらも、アメリカ西海岸3000キロのドライブ旅行に出た。アメリカなら良いビジネスが見付かるかも知れない? と期待しつつ。


 


第二章


[TAFEカレッジ]


 TAFEの授業は、午前八時から始まる。 十時前に二十分間のコーヒーブレイクがあって、その後、十二時のランチタイムまで続き、午後は十二時四十五分から始まる。 三時前に休憩をとり、次は四時半まで、そして下校となる。 校内に開始や終了のべルが鳴って合図される訳でなく担当教官が判断して、それを決める。 原則として、ランチタイム意外はキャンパスより外出は出来ない。 月曜から木曜まで、毎日九時間近くも校内にいることになり、このコースは、かなりハードなスケジュールであった。


 TAFEとはテクニカル・アンド・ファーザー・エジュケイションの頭文字を合せたもので、通常この前にGClTが付き訳すと、ゴールドコースト技術促進教育専門学校になる。 日本での職業訓練校と言える。 ゴールドコーストには五ヶ所のキャンパスがあり、それぞれ教育内容が異なっている。 私が通学しているアッシュモア・キャンパスは技術系の教育養成が目的でいろんな設備が整っている。 服飾デザインやファションモデル、旅行業務、接客サービス業務、調理人、大工、左官、パン職人、ケーキ職人、コンピューター、電気、電子、機械、溶接、車の整備、測量、建築士の養成等、その数は五十種類で、各々立派な実習場を持っている。


 コースの期間は短いので一ヶ月間、フルタイムの長い方で三年、パートタイムでは六年がある。 一般大学へ行けず、もっと勉強したい人、技術を身に付け良い職場へ就職したい人、又、転職を希望する人達の技術の習得や養成の為の専門学校である。 職種にもよるが、コースは初級から上級まであって、研修生の年齢層もかなり広い。


 私は電気工学を専攻した。 ゴールドコーストの繁華街で十三年間日本レストランをやった。 事情があって、次はレストラン業を断念した。 食べ物商売から電気関係の仕事へと、まったく違った職場へ180度の転換である。 子供の頃から電気関係には興味があり、少し経験もあった。 日本であるような電気工事士の資格を取り、器具の修理とか屋内配線の自営業をして、残された人生を、この仕事で全うしたいと考えた。


 


[アプレンティスシップ]


 資格の取得が簡単に出来るだろうと電気科のコースを受講した。 ところが勉強を始めると、その規制が厳しく複雑で、そう簡単にライセンスが取れないことが分った。


 オーストラリアは英国の制度をそのまま取り入れていて、大抵の職業にライセンスが必要で、それを取得するのに、最低でも四年間が必要なのである。


 電気関係の系統には大きく別けて六種類あり、一般的な電気工事士になる場合、そのライセンスを得るには、条件の整った雇用主と四年間の契約を結ぶ。 これをアプレンティスシップ(年季奉公)と言う。 この期間、雇用主は、この人に技術のトレーニングをし、通常勤務時間中、週に数日は通学させ電気理論を学ばせることになっている。


 もし雇用主に不都合な事が起き、この契約を解消したいと思っても、簡単には出来ない。 その場合、別の雇用主を見付けてやり、契約を移転し継続させねばならない。


 そのかわり、この期間中は、通常の半分以下の給料でこの人を使えるのである。でも、四年間の契約期間が長すぎ、責任も重い、雇用主にとってはリスクが多すぎるのだ。 しかし、この契約を交わさないと、その人は何十年、その仕事に従事して経験を積んでもライセンスの取得に繋がっていかないのである。


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異国!五十の手習い。7 結婚式

[カナダ人の結婚式]


 ベラクーラは、古くから、たくさんのカナダインディアンが住んでいる。 周囲に高い岩山がそびえ、氷河が見える。 一つ一つの山頂にインディアンの名が付けられていた。「ケンジ、あの山に登頂したら、お前の名を付けてやろう、まだ登った者がいないからな」と一番高い山を指差した。 「ロッククライミングが好きになるまで、待ってくれ、その時が来たら、知らせるから」と言ったら、夫婦で大声を出して笑った。


ジョニーの姉さん家族の家で、今夜から、三人で泊まることになっている。 御主人は建築設計士、自宅はまだ建築中であった。 外観は出来ているが内装は約60%、住みながらで暇まかせ、しかも彼一人の作業だ、「何時になったら、完成するのか、全く分らない」と笑っていた。


 山小屋風で三ベッドルーム、三方ガラス窓の大きなリビングルーム、回りが棚になって、その上に古代石器類が所狭しとばかり並べられていた。 これらは、自宅の屋敷から出てきたそうで、この地区は大昔、インディアンの集落場所だったそうだ。


私達三人は、工事中の部屋の廊下に寝袋を敷いて寝ることになった。 小学生の娘が二人いて、部屋を一つ専有している。 ほんの数日だ、その部屋を開けて、はるばるやって来た客人に提供するなんて事はしないのである。 これもやはり文化の遠いだろう。 こちらも気を使わないで済むから助かるが。 


結婚式は翌日の午後五時から始まった。 二人は教会で式を済ますと、リボンで飾られたキャデラックのオープンカーに乗り込み、パーティ会場へと向かった。 会場は、町の公民館で、そこから一キロメートル程、教会参列者は全員歩いた。 中に入ると目を見張るばかり、天井と璧一面に色とりどりの飾り付けがされていた。 すでに百人は来ていた。 長いテーブルが数列並べられ、白布が掛けられて、プレゼントが山と積まれ、酒、料理、果物類がどっさり置かれていた。


 前に、日本で友人からカナダ人の盛大な結婚式の話を聞いたことがあった。 それを目の前にした。 私は大感激をすると共に、その雰囲気に解け込み、心ゆくまでたんのうしたことは言うまでもない。


 翌日、ジョニ―の実家を訪れた。 丸太を組み合わせて作られた家は、映画で見る開拓当時の姿そのままであった。 三日前、テトラレイクまでカヌーを持って来て、一緒に釣りをした弟は両親と、この家に住んでいる。 彼の部屋へ入った。 壁には数丁のライフル銃のコレクション、又、仕留めた動物の頭部剥製も取り付けられていた。 彼は土木工事業のかたわら、馬で雪深い山道を野宿しながら、一週間に渡って狩猟の旅に出ると言う、足跡を調べながら獲物を追跡している、そんな映画のシーンを、私は思い出した。


 この町には、今でもたくさんのインディアンが住んでいる。カナダ政府の建てたプレハブの住宅地域に集まり生活をしている。 車の窓越しに、その家々を見たが非常に貧しそうだった。 そう言えば、昨日、教会にもパーティ会場にも、それらしき人々は、誰一人、来ていなかった。


 ここは又、昔からサケ漁で有名である。 バンクーバー市から船でリアス式海岸を経て、この町へ買い付けにやってくる。 地元インディアンには、サケ漁が出来る特別のライセンスが与えられているのだ。 ジョニ−と私は、近くを流れる川の、釣り許可証を買った。 小さなボートで川に出、そして岸からも釣ってみた。 でも時期が悪かったのか、何一つアタリがなかった。 これこそ、ライセンス代の無駄使いであった。


 ジョニ−の父親が乗馬をさせてくれた。 簡単な手解きをした後、彼はどこかへ行ってしまった。 カッコ良くジーンズをはき、映画のヒーローになった気がして、狭い場所をぐるぐる回っていた。 馬の手綱を左右交互に引っ張ったら、馬が怒りだして、振り落とされそうになった。 とっさに、彼を呼んで静めて貰った。 裸馬で初めての乗馬だった。 股の部分に馬の背中の汚れがべっとりと付き洗ってもなかなか落ちなかった。


 私達は帰途についた。 今度はどこへも寄道はしなかった。 長距離ドライブの途中で、ふと、新ビジネスの一件を思い出した。 新鮮で楽しい出来事が多かったから、すっかり忘れてしまった。 今からでは遅すぎる。 で、もう一度、それを忘れることにした。


 


[英語学校]


 週が明け、再び英語クラスが始まった。 旅行のフレッシュな気分が当分続いた。 クラスメイツは15人、日本人と南米スペイン系、中東系、それにフランス系カナダ人である。 二百年前の移民時代、フランスからも北米へ大勢の移民がやってきた。 ところが、イギリス系の方は勢力が強く、西へ西へと前進して行った。 それは、フランスのワインよりもアルコール分の強いスコッチが荒くれの開拓者に向いていたからだと言われている。カナダの東部にクベックという州がある。 フランス系住民で占められ、文化は勿論、言葉もフランス語である。 ずっと前から、独立国を目指していたが、イギリス系議員の多いカナダ政府はこれに反対していた。 そこでフランス語も国語にしたのである。                      


そして政府は、この州の人が英語を学ぶ場合、奨学金を出すことになった。 そのスチューデント達が、今ここで、一緒に勉強しているのだ。 そして、フランス語を学びたい英国系の人達にも、この制度が適用されている。 


 


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異国!五十の手習い。6 幸運

[幸運]


それから一ヶ月後、ジョニーのもう一人の妹が結婚することになった。 まだ二十才の若さである。 バンクーバーの北西五百キロにベラクーラという小さな町がある。 ジョニーの生れ故郷で両親と弟、姉妹が住んでいる。


「車で往復一週間の旅で、語学校の担任に許可をとるから、ケンジも一緒に行こう、今度はバーバラも一緒だ」 やっぱりホームステイをここにして良かった。 教室の授業よりずっといい。 もしかして、面白いビジネスが見付かるかも知れない。 又、長距離ドライブの途中に、カナダ中西郡の田舎町が見られて楽しみだ。


 ジョニ−はその準備に取り掛かった。 私も手伝い、車の掃除を買って出た。 時々乗せて貰うが、その汚さが気になっていた。 紙くずと空き缶、タバコの吸いかす、まるでゴミ箱が走っているようだった。 汗を掻き、掻き、やっときれいになった。


 家に入ると、彼の友人が来ていて話し中だった。 彼は友人に、私を紹介した後、「ケンジは掃除をするのが好きだ」と付け加えた。 「冗談じゃない、世の中に掃除の好きな人間などいない、清潔が好きだから掃除をするのだ」と言いたかったが、言葉がでて来ない。友人も居る事だし、まあよかろう、文化の違いかな、と諦めた。


 


[ドライブ旅行]


 旅立ちの日が来た。 私達は夜明け前に出発した。 夏だが、朝の空気は冷たく身にしみた。 市街地をでて暫く走ると、太陽が昇って暖かくなってきた。 道路のコンディションも良くドライブは快適だ。 途中でキャンプをして二日間取ることになっている。


 四時間後、幹線道路から左へ逸れジャリ道となった。 他に車は走っていない。 道路が乾燥し、後が見えない程、砂埃が巻い上がった。 途中、赤茶けた土壌の荒野もあって、森と湖の国、カナダのイメージが違っていた。 すると突然、車のエンジンが止まった。 辺りを見渡すと運良く農家があった。 電話を借りて、近くの修理工場へ連絡した。 ジョニ−には、どの部品が悪いのか、すでに分っていたようだ。


 この国の男性は、車のメカニックに強い。 古い車に乗っている人が多く、度々修理するから自然と詳しくなるのだ。 彼の車はカローラのライトバンで1964年製である。 40分近く待ってやっと部品が届いた。 燃料ポンプの故障で、それを取替えるとエンジンは何事もなかったようにポンとかかった。 予定時間が遅れ、前より、ずっとスピードを出した。 砂塵が前より、一段と舞い上がった。


二時間後に、予定地のテトラレイクに到着、今夜は、ここでキヤンプをするのだ。


カナダでは淡水での釣り、川とか湖で釣りをする場合は許可証がいる。 釣り場近くの雑貨屋さんで、それが買え、通常一年間が有効である。 テントの準備をした後、彼はバーバラを残し、私を連れて、それを買いに出掛けた。 許可証は、この湖専用で六ドルだった。 高いのか安いのか、さっぱり分らなかったが、私も買うことにした。 でも、言えることは、もう一度、ここへ来て、釣りをすることは、ありえないことだ。


 テントに戻り、暫くすると、ジョニ−の弟がやってきた。 私達の行くベラクーラから、ここで落合う約束をしていたのであった。 四輪駆動車のルーフラックにカヌーを積んでいた。 田舎の生活でか、彼はジョニ−よりも、ずっと老けて見えた。 口髭を生やし、西部劇にでて来る開拓者のようだった。


 カラスが木の上で、けたたましく鳴いた。 彼は運転席から、徐に、ライフルを取り出し狙った。 一発一中、大きなカラスが、ドサッと、音を立てて落ちてきた。


30メートル程、離れた場所にタバコを一本立てた。 私は5、6発、それを狙って射った。 でもすべて外れてしまった。 子供の頃、空気銃を射ったことはあったが、実弾は初めてで、こんなに大きな音と衝撃があるとは思わなかった。


 彼らは車からカヌーを降ろし湖に浮べた。 ジョニ−兄弟と私は、それぞれ手に釣りざおを持って乗り込んだ。 バーバラはテントの前で読書中であった。


 カヌーを漕いで湖を横切り、二十分後に葦の群生する場所に出た。 山岳地帯から入り込んでいるのか、水の流れが非常に速い。 私はルアーを投げ入れ、ゆっくりリールを巻いた。 「カツン」すぐにアタリがきた。 釣れるは、釣れる、30センチ前後のニジマスが、一時間以内に数十匹、私は興奮して立ち上がった。 「ケンジ立つな、カヌーが引っくり返る」と、ジョニ−は何度も大声で叫んだ。


 夕食は、この魚をフライパンでいため、缶詰めの煮豆と食パン、質素な献立だが、キャンプをすると食欲が沸く、お腹がはち切れそうになるまで食べ続けた。


 次の日の昼前にベラクーラに着いた。 途中、険しい峠を越え、そこからの絶景を見た。 曲りくねった細い崖道、日中ならまだしも、ジョニ−の弟は、夜中、車を運転して、そこを通り抜けたのだった。


 


        



異国!五十の手習い。5 盗難

 ジョニ―に連れられて、そのアパートに行くと、部屋は一つで、ダブルベッドに鏡台と洋服入れ、コーヒーテーブルに椅子、若い女性にしては、質素な住まいだった。 狭い場所なので、彼女が気を利かして外泊した理由が分った。 しかしどうも今夜、ジョニ−とベッドを共にしそうである。 「町の中を男同士で歩いているだけで、ホモと見間違えられる」と言われた頃のカナダだ。 「いやだな」と思ったが仕方がなかった。


 私は一人ぐらしに馴れている、今夜は熟睡出来るかどうか分らない。 うつらうつらしながらも、昼間の疲れがでたのか、ぐっすり寝込んでしまった。 そして明くる朝、泥棒が入ったことに、全く気が付かなかったのだ。 ジョニ−の財布がテーブルの上に置かれていたが、中に入れていた現金だけが抜取られていた。 それに彼の腕時計とカメラもない。 私は自分の物を調べた。 ズボンのポケットの財布と現金、腕時計、バックの中のカメラとパスポートすべてそのままあった。


 「昨夜、確かドアーにカギを掛けたはずだ」と言いながら、彼はその点検を始めた。 ドアーのチェーンとカギは開いていた。 彼は信じられない顔をして一瞬、私を疑っているような目付きをした。 「嫌だな」と思いながらも言葉がでない。 身の証をすれば一段と疑われそうで、何も言わないことにした。


 昼頃になって妹が帰ってきた。 彼女に事情を話すと、彼女も先日、被害に合ったそうだ。 そして「どうもこのアパートの住人らしい」とあっさり言った。


 私への疑惑は消えたようだが、ジョニ−はまだ信じられない顔をしていた。 それはしかたがない、私達が知合って、まだ日が浅い、私とて同じ思いである。 帰宅の途中でお金がいるからと、彼は私から借金をした。


 自宅に戻り、返済をしてもらった私は、追加をして、近くの店でカラーテレビを買った。 台湾製の12インチで、割り引を求めたら、店員から笑われたが少し値引きをしてくれた。 駄目で元もと、スーパーマーケットでも値切ってみるべきだ。 それをジョニ−の家の居間に置いた。 将来彼へのプレゼントとなりそうだった。


 



異国!五十の手習い。4 通学

[通学]


ジョニ−は、家が学校から遠い事で気にしていた。 「もし、ここが気にいらなければ、他の下宿先へ移っても良い」と言ってくれた。


 その言葉と語学校の先生をしている事で安心し、「これも何かの縁だ」と思って、ここに留まることにした。


 墓地の横が大道になっていてバス停があった。 毎日そこから通学した。 朝のラッシュ時には大学までの10キロメートルの距離が50分もかかった。 帰宅はラッシュ時の大分前だったが、運転手が突然バスを止め、外へ出ていった。 「バス停でもないのに、どうしたのだろう」と彼を見ていると、店へ入って行き、暫くすると手に物を持って帰って来た。 どうも買い物をしていたようだ。 そして再びバスを運転し始めた。 乗客は見て見ぬふりをして、まったく気にしていないようだ。 結局帰りもそんなに時間の短縮は望めなかった。 ここでは時間がゆっくりと流れているのであった。


 語学校のオフィスは大学本部ビルよりかなり離れた場所にあった。 当日研修生はそこに集まり説明を聞いた。 日本人の他に他国籍の人達が大勢いる。 まさに国際スクールであった。 古い木造の建物だが、レギュラー学生の使っている教室でレッスンが受けられ、図書館、ラボラトリーは身分証明書を見せれば自由に使用が出来た。 又、講義によってはレギュラー学生に混って聴講が許された。 「几談じやない、講義内容が理解出来るようなら英会話のレッスンなど受けない」と思った。 でも大学生のような気分、今までに味わった事のない楽しさに酔いしれた。 キャンパス内のいたる所に庭園があった。時は初夏、目もくらむ程、花々が咲き乱れ、地上の楽園がそこにあった。


 


[盗難]


 ジョニ―に妹がいて、州都ビクトリア市のレストランで働いていた。 「用があって彼女に会いに行くことになった。 ケンジも一緒に行かないか? バーバラは仕事の都合でいけない」 私がここへ来て、初めての旅行である。 二つ返事でオーケーをした。


 その日、ジョニーと私は、フェリーに乗ってビクトリア市の、バンクーバー島へと向かった。 フェリーが港に着くと、車に乗り替え、途中有名な庭園を見ながら、夕方に目的地へ着いた。 夕食は彼女の働いているレストランですることになった。


 彼女はインドレストランに勤めていた。 英国系に拘らずエキゾチックな顔立ちをして、インドの衣装を付け、化粧をしていたので、インド人と見間違った。 食後、彼女は、アパー卜のキーを出して、「今夜は友達の家に泊まるから部屋を自由に使うように」と言いながら手渡した。


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異国!五十の手習い。3 語学留学

[語学留学]


 カナダでは少し長い滞在がしたかった。 それには学生ビザしか方法がない。 当時、両国間でワーキングホリデイ制度もなかった。 又、もしそれがあったとしても、私には適用されない。 年齢が、かなり超過していたからである。 新聞で語学研修の広告を見た。 これならば学生ビザで延長が可能である。


 カナダの西海岸にバンクーバーと言う都市があり、日本人もたくさん住んでいる。 そこに総合大学があって、英語の研修校があり、キャンパス内の設備がすべて使用出来る事に魅力を感じて申込んだ。 私は工業高校卒で大学校内の環境は知らない。 一度は味わいたいと思っていた。  勉強の為でなく、その雰囲気に浸りたかっただけである。 中年近くなってそれが実現できそうなので胸がわくわくした。


 バンクーバー空港に着くと、語学研修会社からマイクロバスが来ていた。 飛行機はアメリカのシアトル経由、そこにも数人降りたので、ここでは十人足らずとなった。 私達はバスに乗せられホームステイの家々に一人ずつ降ろされていった。 私は一番後になった。 「残り物に福あれ」最年長者の私に、最も良い場所を提供する為、他の研修生がいなくなるのを待ったのかな?と、勝手に都合のよいように解釈した。


ところが着いた場所は、最も大学に遠く、しかも墓地の近くだった。 年長者、特別待遇の思いは吹き飛んだ。


その家には、私より若い夫婦が住んでいた。 主人の名はジョニ―、奥さんはバーバラといった。 彼女は病院で看護婦をしている。 ジョニーは、元新聞社に勤めていたが、数年前、そこを辞め、私が行こうとしている語学校の先生をしていた。 家は木造中二階、下はランドリー(洗濯場)と物置、築後四十年近くになるだろうか、所々ペンキが剥げ、手入れが悪いので、人の住まない空き家のようであった。 裏庭に大きな木があり、ハンモックが吊るされていた。 雑草混じりの芝生はかなり伸びていた。 共働きで忙しいから、家も庭も手入れする時間がないのであろう。 私は裏庭の見える小さな部屋を与えられた。 シングルベットが一つに小さな机と椅子が置かれていた。


私は日本で聞いた事があった。 外国でホームステイをさせるのは中流以上の裕福な家庭で、国際親善が目的であると。 随分様子が違う。 取扱い旅行業者によると、ホームステイ費は出していると聞いている。 もっと大きくて、きれいな家を想像していたのである。 これでは生活費の一部を得る収入源としか考えられない。 「私は今、かなりの現金を持っている、これはやばい、用心しなければならない」と身の危険さえも感じた。



異国!五十の手習い。2 旅立ち

[新ビジネス探求への旅立ち]


 私がオーストラリアヘ永住したのは、1981年11月であった。 海外に憧れ、どんな職業でもよい、是非、外国で商売をしたかった。 


兄と一緒に仕事をして、フランス、アメリカをたびたび訪問する機会があった。 そして、たまたま会社で、ある商品を開発した。 それが大ヒットとなり、お金が貯まりだした。 小金が出来ると、誰でも独立してみたくなる、でも兄と同じ職種だけは嫌だった。 この業界は狭すぎたからである。 日本での新商売も当たってはみたが、若い頃からの念願であった海外にと意を決した。 人間一度きり、満足出来る人生を創造しよう。 それには少々冒険をしてみようと思ったのである。 高給を貰っていた成長期の会社を辞めて、一路、北米大陸へと旅立った。


 和歌山県の中部海岸添いにアメリカ村と呼ばれている地域がある。 周囲を山と海に囲まれた小さな漁村で百年以前より北米への移住が盛んであった。 私は近村に住んでいて、中学時代同級生の中に、その村から来ている生徒がいた。 兄弟姉妹、親戚がカナダヘ移住している。 その縁で彼等も中学卒業と同時に移住するのだと言う。 それを話す時、彼等の目は輝き活気に満ちていた。 どうしてそんなに魅力があるのだろうか?  失礼だが、昔から移民と言えば非常に暗いイメージがあった。 それは戦前、戦後を通じて、貧困の中からやむにやまれず出掛けた人々が多かったからかも知れない。 又、昨今のように便利な交通機関もない、外地への移住は、戦地へ行くように、二度と再び日本の地を踏むことが出来ぬかも知れないと思った。 古いニユース映画で、岸壁で涙、涙の別れをしている光景がそれを物語っている。


 でもカナダヘ移住する人達は、どこか違っていた。  暗さが感じられないのである。 まるでユートピアヘでも出掛けるようだった。


 当時、日本国中、仕事難の時代、この村でも特に厳しかった。 しかし移住はするが将来きっと故郷へ錦を飾るぞ、との強い思いがあったのである。 移住をしたこの地の人々は、現地で良く働き、貯蓄をした。 そして年をとると、子供の頃育った、懐かしい思い出の、この村へ帰って来て、老後を送るのだった。


 彼等は、村のあちこちに洋館を建て、お互い英語を使って生活をした。 当時、日本では考えられない程、ハデな服装をしていたそうだ。 アメリカ村と呼ばれる所以は、そこから来ている。 ところが近年になって様子が一変した。 裕福な老後になっても、この村へ帰って来なくなってしまったのである。 老後を過ごした人達の死後、住人のいない洋館が廃墟のように村のあちこちに出現した。 その理由をクラスメイツに問うと、「この村へ帰るよりも移住地の方が住み易く、彼等の子供達も、ここへ戻って来ないのだ」と、云った。


 広い敷地に大きな家、発達した社会福祉政策があり、この村へ帰るよりも居心地が良いとのことである。 では彼等は一体どんな暮らしをしているのだろうか?  私は実際に現地へ行ってこの目で確かめようと思った。 中学当時の懐かしいクラスメイツにも会える。 もしかしたら、彼等から情報を得て良いビジネスが見付かるかも知れない。 つづく。


                                                     



 



異国!五十の手習い。1 入学式

                        五十(才)の手習い


第一章


[入学式]


 1996年6月24日午前9時、オリエンテーションが始まった。 校則、授業内容について詳細に説明を受ける。 いよいよ当コ−スのスタートである。 子供の頃から、始業式になると、何時も興奮したが、今でも変わらない。 私の英語力では所々理解出来ないことがあった。 でも全体の意味が掴まえられ問題はなかった。 クラス内を見渡すと、スチューゼントは合計31名、二十才前後が20入、三十才前後が7人、四十才前後が3人、私のような50才代は他に誰もいない、しかも唯一の日本人であった。 入学式の興奮した胸の高鳴りをよそに、何を間違えたか、私だけ突然、異郷に迷い込んだ感じがした。


 このコ−スは電気科と電子科が一緒になっている。 スケジュールを見ると、別々の教室で授業をするのは、15課目の内5課日、来年の5月までの11ケ月間、彼等と共に机を並べ勉強することになる。


 オリエンテーションの後、能力テストがあった。 ピタゴラスの定理、三角関数による計算、それに文章を読んで、その正解を四者拓一する問題、すべて簡単な質問なのに、なかなか出来ない、昔習った事だ、でも突然で、なかなか思い出せないのであった。 まさか今日、テストがあるとは思わなかった。 このテストの結果は知らして貰えなかったが、散々であったに違いない。 つづく。                                                                         


 


 


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異国!五十才の手習い。はじめに
[まえがき]  クィーンズランド州、州都ブリスベンから約80キロメートル南下すると、オーストラリア最大のリゾー卜でゴールドコーストと呼ばれている海岸がある。 その町、ビーチのすぐ近く、目抜き通りの商店街で売りに出されていた小さなドーナツショップを見付けた。 私はオーストラリアヘ永住して数ヶ月後で、この有名なリゾー卜の名も知らず、地域の事情も分らず、ただ売り値が手頃だったのと、通りに人がいっぱいいて、大変活気を感じたので、そのビジネスの権利を買うことにした。 1982年4月のことである。 日本は観光ブ−ムの真最中、∃―ロツパを始め、ハワイヘは常に最高の人出となっていた。 ゴールドコーストはハワイと、ちょっと一味違う、しゃれた雰囲気の観光地として脚光をあび出したのは、私がその店をやり出して一年後からだった。 私は、ドーナツ販売から、日本食店に切替え、うどん、牛どん、カレーライスの販売を始めた。 このリゾー卜は、最初、日本から新婚さん達のハネムーンの旅行地として知られ、やがて一般の観光客でも有名になっていった。 気候や環境、治安の良さから、ウェルシー(裕福)な人々の余生の場所、リタイアメントの地としても候補に上がり、日本のバブル経済の始まりと共に、不動産投資のターゲットともなっていったのである。 昨今の日本経済不況の起因も、ここでの無理な投機が、その一翼を担ったのではないかと私は思っている。 当時日本の銀行は際限なくお金を貸し、地上げ屋が来て一等場所の土地買いが始まった。 ゆっくりと成長していたこのリゾー卜が急に慌しくなってきたのである。 私の日本食店もそれと共に急成長をし、移転と共に小さな店舗から、本格的なレストランを持つまでになった。 商売繁盛、順風満帆で突き進む、機運を掴もうとする男ここありとの思いがした。 でも長続きはしなかった。 土地高騰による弊害が怒涛の如く押寄せて来たのである。 と同時に、日本のバブル経済崩壊を待たずして、私の周辺にも運命のいたずらか、思わぬ逆境が襲って来た。 自分自身の引き起こした悪因果で自業自得ならば仕方はない。 ところが、試練のように次々と、私の頭上から振りかかってきたのである。文化や習慣、思考の違うこの国で、どのようなハプニングが起こり、いかに奮闘し、切抜けて来たか、又、一瞬にして過ぎ去った、日本人によるゴールドコーストブームの激動期、その中で商売をして来た者として、数々の事件を混えて、私の13年間の体験を軸にして書きました。 そしてレストラン建物の取壊しを機会に、今度は日本人相手のビジネスではなく、オーストラリア人の実社会に入っていく為、180度の転職を志、その準備の第一歩として、自分の年齢をも忘れ、一から勉強を始めようと、技術研修校への通学を始めた。 フルタイム(全日制)で一年間のコース受講中、教官と研修生の人間模様や授業風景、又、詳しく、課目の内容を記したのは、制度の違うこの国の事情を知って頂き、日本での同教育過程との比較をして貰う為であります。 この本に登場する教官やクラスメイツ、それに友人達のエピソードはすべて事実をそのまま書きました。 後日、彼等に迷惑を掛けてはいけないと思い、すべて名前を付け変えてあります。 又、私の知る範囲、日本との相違点で、興味深いと思われる事柄や話題、それにオーストラリア人の実生活、これらも私か拘った出来事を根本としたものであります。 それから、知人、友人からの珍しい情報等も多数書き入れさせて戴き、紙面を借りて御礼を申上げます。                2006年4月、 ゴールドコ−ストにて   
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